先日、国内最古の教会、大浦天主堂(国宝)を始めとする教会群とキリスト教関連遺産が、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産に登録適当であると、諮問機関(イコモス)からお墨付きをもらったというニュースを聞いた。
ということもあり「沈黙―サイレンス―」(マーティン・スコセッシ監督)をWOWOWで鑑賞。
公開時に出演者の一人である塚本晋也監督が、インタビューで「過酷な撮影になると分かっていたけど、絶対に参加したかった」というようなことを言っていた。確かに塚本監督(モキチ)の処刑のされ方はきつかった。人間が人間を苦しめる拷問方法や器具は洋の東西を問わず知恵を振り絞って作られ、どこまで人を苦しめられるか探求されている。
踏み絵や十字架に唾をかけることなど、自分の命と引き換えに拒むことだろうか。”信仰心”のない私は何度も思った。
信仰とは、自分の命に代えてでも持ち続けなければならないものなのだろうか。生きているからこそ信仰もできるのではないか。
当時の隠れキリシタンの人たちは、神を信じれば天国に行けると、貧しくつらい状況から逃れられると思っていたのか。または、海の向こうから信仰を持ってきたパードレ(=Father、神父)そのものが信仰の対象であり、信仰のためというよりは彼らを救うためともとれる殉教もあった。どちらにしても、布教で日本に渡った師が棄教した噂を聞き、日本に密航したイエズス会の神父、セバスチャン(アンドリュー・ガーフィールド)も、彼の師と同様、彼らの苦しみに耐えかねて、転んだ(棄教した)。
神は人間に苦難を与えるものだが、これほどの苦難を与える必要があるのか、と何度も神に尋ね、その度に神の沈黙を聴いた結果だった。
ユダともとれる窪塚洋介演じるキチジローは、命を取られる変わりに何度も踏み絵を実行し、神父をも裏切り、その度に懺悔する。その狡猾さと後悔の様がこの映画の中で最も人間らしく、愛おしくさえ感じた。
長崎奉行のイッセー尾形、通事の浅野忠信、先に棄教した神父のリーアム・二ーソンに、クリスチャンである原作者、遠藤周作の言葉を語らせたのかしら、やはり原作をいつか読もうと思った。