はやし蜜豆の犬も歩けば棒に当たる、

好きな俳優の作品を集中して観るのが好き。その記録や映画の感想、日常気になる現象をぼそぼそ綴っていきます。

「ふしぎな君が代」- 辻田真佐憲著

ワールドカップの日本戦で国家斉唱の時、テレビの前で「君が代」を歌ったことを以前書いた。右や左の思想でないことを断って書いたのだが、「君が代」が物議を醸す理由について今の自分の理解以上のものを得たくて、Amazonで見つけたのがこの本。
Amazonのプレビューでも評価が高く、丁寧な時代考証と偏りのない考察で「君が代」について、なんとなく論議することを避けているのではなく国歌としての成り立ちや賛否について各人が考えてみようと一石を投じている、まさに”良書”だと思う。


本は「君が代」について、以下の6つの視点(本の帯より抜粋)で考察し著者の考えを述べている。

  • なぜこの歌詞なのか
  • 誰が作曲したのか
  • いつ国家になったのか
  • いかにして国民に知れ渡ったのか
  • 戦中・戦後をどのように生き延びたのか(国歌として)
  • なぜいまだ論争の的になるのか


明治維新直後「君が代」が国際的行事で演奏される”国歌”として誕生したドタバタ劇も、へええぇぇぇ。って何度もボタンを叩きたくなるものだったし、歌詞に至っては、1000年以上前の古歌に遡り世界最古、かつ最短の国歌であるらしい。
また、どういう経緯で日本国中に広まったかについては、レコードのない時代は何番まで歌うか、繰り返し歌うかなど、バラバラだったという話など面白い。
読み終えて最もインパクトがあったのは、著者が「君が代」を歌う国歌から聴く国家にすれば、すなわち”歌う”という行為を省けば、「君が代」をすばらしい国家として受容できるのではないかと結論づけていることだ。
なるほど。一つの歌を一緒に歌う行為は、まさに人々の心を一つにしていく。だから闘いの前に歌うのだ。(私でさえも思わず先のブログの通り試合前に歌ったのだ)そう言えばワールドカップの後日談で、選手たちも移動のバスの中でよく歌を歌っていた、と話していた。歌にはそういうパワーがあるし、歌うという行為は個人にとって能動的かつ技術と共に情緒も必要になってくる。だから、「君が代」に何らかのひっかかりを持っている人は声に出して歌いにくい。なるほど。そういえばサッカーの試合だけでなくスポーツの大会で演奏される国家を、選手皆が声高らかに歌っていないことを思い出した。これは日本の選手だけではない。歌っていない選手が国歌に”ひっかかかり”があるかどうは知らないけれど。


著者は、歌うことで日本は近代化を成功させた、とまで言っている。明治維新は、国内にいくつもあった藩(くに)を日本国という一つの国にまとめていく国づくり(近代化)から始まった。当時日本国のトップに祀られていたのが天皇であり、長い年月をかけて”君”の世を讃える「君が代」を小学校から歌い、重要な行事の度にソラで歌い続けることで、”君”を中心に国民がまとまっていった・・・。(もちろん、近代化を成しえた要素はそれだけでないことは言うまでもない。また現代では”君”は、あくまで国民の象徴としての天皇だろう。)

私は「君が代」を国歌として大声で、あるいは美声で歌えばいいと思っている。(だってサッカーの試合前に有名な歌手が「君が代」を独唱するのを見て、なんて気持ちよさそうに歌うのだろう、と羨ましいもの。)その点が著者と大きく違っているけれど、「君が代」が国家として今更変える必要もないのではないか、という意見は一致した。そしてそのことも含め、各人が「君が代」議論から、というか”考える”という行為から逃げることなく自分の頭で考え議論しよう、という点にも大いに賛成だ。

ふしぎな君が代 (幻冬舎新書)