はやし蜜豆の犬も歩けば棒に当たる、

好きな俳優の作品を集中して観るのが好き。その記録や映画の感想、日常気になる現象をぼそぼそ綴っていきます。

「斬、」- 2

時代劇を観たという感覚はなかった。

刀(=鉄の塊)が人を殺す武器の象徴として在り、池松壮亮演じる杢乃進がそれを携え、扱い、振るう“音”が、すぐそばにある武器=人を殺すモノとして常に映画に張り付いていた。

そしてその音は耳につき、死を連想させる。

 

この「斬、」公開にあたり、作家性の強い塚本晋也監督の制作意図や鑑賞評がネットのほか様々な媒体に出ていて、鑑賞前からすでに観たような気分になってしまっていた。以下の感想はそれらの記事のいくつかを読んでからの感想になる。

監督は、反戦の思いを込めた前作「野火」の延長上に本作があるとし、今の日本が監督の願いとは反対の方向に進みつつあることを憂慮し、少しでも世に提起したいとの思いがあったとのこと。そして現代の問題を、時代を江戸末期に移し、今の若者である池松壮亮が演じることで成立させた。

人を斬ること、人と人とが殺し合うことについて、杢乃進の迷い、苦悩を通じで観る者に問う。人を斬ることに大義はあるのか?大義があれば、人を殺してもいいのか?

 

そう言えば、いわゆる時代劇における武士の所作みたいなものは、殺陣のシーン以外はあまりなかった。だけど、ただ立っているだけの池松壮亮の様はサムライだった。一方のめっぽう腕のたつ澤村を演じた塚本晋也監督は、だんだんただの殺し屋に見えてきた。執拗に杢乃進を殺し合いに誘い、その本当に恐ろしい目と手負いになっても追い続ける様が、もはやターミネーターみたいだった。

冒頭に時代劇を観た感じがしないと書いたが、江戸末期の脱藩浪人が江戸近郊の農家で農業を手伝って食い扶持を得、剣での活躍の期を待っているという設定なのだからそれも仕方ない。そもそも池松の頭も役者で出演している塚本晋也監督の頭も髷でないもの。当時の浪人にありがちな総髪といえばそうだけど、塚本監督はそのまんまのボウズだし。さらに追加しておくと、自慰シーンが2回も出てくるが、時代劇でこれまでそういうシーンを観たことがない。後で思うに、これは“生”=生きることの一つを表しているのかしら。

 

それにしても、池松壮亮の剣の稽古、殺陣のシーンはカッコよかった。久しぶりにかっこいい池松を観た!殺陣の“様式”を追求するのに違和感があると、どこかのインタビューで池松が言っていたが、そこに様式美などなく、スピード感と激しさ、その剣の先に死があるというリアルさのみ。だけどその殺陣のかっこいい見せ場はほぼなく、話の中の肝心なところで杢乃進(池松)はかなりヘタレなことになる。

杢乃進を慕う農家の娘役の蒼井優の視線が、普通の人=一般の鑑賞者&女性目線として存在する。庶民のしたたかさと強さ。殺し合いに行く男を止められない女の無力さ。

はっきり言って、映画終盤はもういいから終わってくれと願った自分がいた。この時点で、男二人の追いつ追われつを目撃している女(蒼井優)と私は同じ目線になっていた。

 

ラスト、本当にヤラレる時にたぶん本能的に振った刀で、初めて人を斬った杢乃進。

去っていく後ろ姿には、引きずる刀の金属が摺れる音と女の絶望的な慟哭。

エンドロールが終わった後の大ラスでも、原野に残る刀が摺れる音。

あれだけ人を斬ることを躊躇(ためら)い、避けてきた男は、それまで執着してきた刀という武器を結局最後まで捨てることはなかった。

なんだよ、捨てないのかよ。そう思ったのは私が女だからか。

 

その人でなければ演じられない役、というのは滅多にないと思う。

だけど、この杢乃進という役は、池松壮亮が演じて初めて成立すると思った。その物静かで優しい物言いと、激しく苦悩する様と真っすぐにこちらを射る目の光。

エンドロールで「北辰一刀流」の文字!あの龍馬が通った千葉道場の流派!

余談だが、池松壮亮坂本龍馬を演ったらどうなんだろう。これまでと全然違う龍馬像が観られるのではと一瞬勝手に思いました。

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