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はやし蜜豆の犬も歩けば棒に当たる、

好きな俳優の作品を集中して観るのが好き。その記録や映画の感想、日常気になる現象をぼそぼそ綴っていきます。

「海を駆ける」(2018年)

台詞、出番とも少なく、しかもピカピカの爽やかおディーンではなく、飾らないラフで自然体のディーン・フジオカが海を背にいた。

津波と戦争の傷跡が残るインドネシアアチェの浜に突然現れた不思議な男、ラウ(ディーン)。日本から父の遺灰を散骨するべく、父ゆかりの海を探しに来たサチコ(阿部純子)といとこのタカシ(大賀)、タカシの友人のクリスと幼馴染みのイルマ、4人の若者の青春がインドネシアの美しい海をバックに描かれキラキラと眩しい。解りやすい話としては、もはやこの4人の淡い恋愛模様の方だ。英語、日本語、インドネシア語が混じり、特に大賀のインドネシア人としての健闘が素晴らしい。

一応主役のラウ(ディーン)は、何者か?というメインストーリーもあるのだが、これは観る者に解釈を委ねたものとなる。私は読みかじった程度の「遠野物語」を思い出した。

 映画の中での一説は、津波にのまれた人々の魂が姿を変えて現れたのか、だったけど、私は「海」の化身だと思った。先の津波で人々を襲い、人々の恨みを買ったのでちょっと仲直りしに来て人助けをしたり、遊んだり。海は人間と仲良しなんだよ。そう思わせながら油断をした、あるいは危険を察知できない子どもをうっかり死に追いやってしまう。やはり自然の恐ろしさを持つ存在。(神話的な解釈をすれば親しみ過ぎて油断すると危ないと言う警告になるのだと思うが。)

 

それにしても、ラウはディーン・フジオカならではの役だなあと思った。彼の使い方を間違っていない。過剰な役作りをせず(強いて言えば歩き方?)、ボウボウとそこにいる。インドネシアに家族との生活の拠点があるディーンの日常の一端って、こんな感じなんじゃないって思えるほど飾り気がない。清んだ目でにっこり笑う中年のおじさんのディーン。(失礼。でも青年じゃないし若かりし頃の骨ばった直線はないしね、もはやおディーンも。)

公式サイトを見ると、深田晃司監督はディーンの写真を見たとき一気にラウというキャラクターが固まったと言っている。そして、ラウの役作りは、監督の綿密な演出と俳優ディーンのプロフェッショナルの賜物であったらしい。私が彼の作品の中でかなりいいなと思ったのは、香港でのデビュー作「八月の物語」で、ラウは「八月の物語」のディーンの役に少し似ていた。はやり台詞が極端に少なく、所在なくそこに佇む若者をディーンが自然体で好演していた。そう、しゃべらないほうがいいのよね。なんか佇まいと笑顔と視線で語れる俳優なんだ、ディーンて。もはや俳優云々より、ディーン・フジオカという生き方が醸し出すものかもしれない。そういう意味で稀有な俳優さんだ。

観てよかったな。この映画。

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