志村園長(志村けんさん:親しみを込めて敢えて園長)が新型コロナウイルスに感染したというニュースは、芸能界での最初の感染者ということで衝撃が走ったけれど、その後1週間そこらも経たないうちに、彼が亡くなったと言う知らせに、多くの人が驚き、悲しみ、とてつもない喪失感を味わったのではないだろうか。
芸能人の誰かが亡くなって、その事実だけで泣いたという記憶は今までない私だけれど、このニュースには自然と涙が流れた。「天才!志村どうぶつ園」で、パン君(チンパンジー)やプリンちゃん(パン君の娘)を見つめる、まるで自分の子供や孫をみるような優しい顔を思い出した。
同時に頭をよぎったのは、彼の命を突然奪ったのがコロナウイルスであること。これで、若年層の不用心な外出が、少なからず自粛されるのではないか。自分がキャリアになるというリスクを自覚したのではないか。
志村園長が亡くなってから、追悼コメントや番組を見ながら、改めてその人柄を知り涙しながら、ふと、この泣くという行為は、現在自分達がおかれている状況に対して、愚痴の捌け口もない、やり場のない怒りみたいなものを、少しでも浄化しようとしている、生理的反応なのではないかと思えてきた。
そして、それができるなら、生理反応のままにしていいと思った。日常が少しずつ非日常になっていくのではないか、世界のコロナウィルスに関するニュースや、身近なところではスーバーの空になった棚を見るにつけ感じる不安に、蓋をしたままではいつかおかしくなる。
園長の死を悼み、泣きながら感じたこと。