鑑賞中、1ミリも登場人物の誰にも共感できなかった。
主人公のウィリー・ノーマン(段田康則)は、敏腕セールスマンだった過去の栄光が忘れられない。60歳を過ぎ、彼から品物を買う人もおらず歩合収入の生活は苦しい。
それなのに「男はビッグビジネスをしてなんぼ」「ビッグビジネスをした俺はえらい」という考えに固執し、息子たち(ビフ=福士誠治・ハッピー=林遣都)にその考えを押し付ける。
保険料とローンの支払いのため、友人(チャーリー=鶴見辰吾)に金を借りるくせに、友人が用意した仕事にはプライドが高くて就こうとしない。
家族を心配する妻(リンダ=鈴木保奈美)の助言や言葉を、ややもすれば遮ってばかりいる。「女は黙っておけ」とばかりに。
アメフトのスター選手で自慢の息子だった長男のビフ(福士)は、高校卒業に失敗し、30歳を過ぎても職探しの身だ。その現実にも向かい合おうとせず、ウィリーの過剰な期待と反動の怒りはビフを追い詰めていく。
終盤クライマックスともいえるビフの「パパ、僕はクズなんだ」本当の自分を見て、と父親にすがる姿に思わず目をつむってしまった。自分のことを「クズ」だと泣きながら叫ぶ子どもが不憫で、親としての私自身にもその叫びが突き刺さった気がしたから。
なぜありのままの息子を受け入れてやれなかったのだろう。スター選手だった息子を持ち上げ、甘やかし、”見栄えが良くてはったりがあれば世の中渡れる”と説いたのは、父親ではなかったか。
次男のハッピー(遣都)にも触れておくと、女好きでその場しのぎの性格の彼は、子どもの頃から憧れだった兄の現在の体たらくを適当に励ますばかり。親父が自殺しようとしているかもしれないと兄に言われても、まるで頓着しない様子だ。根拠のない自信を兄に求め、とにかく言動が軽い。
そのハッピーに比べて、自分をクズと言ったビフは、実は繊細で優しい兄であることに気がつく。
それにしても、母親のリンダが二人の息子に引導を渡すように、いいかげん家から出ていけと言い放った時はなんだか小気味よかった。
セールスマンの夫を尊敬し、2人の息子を愛し、社会が豊かになっていく過程で我が家も豊かになると信じて生きてきたリンダ。夫の前では出過ぎず、しかし豊さに必要なお金はきっちり要求するしたたかさも持っている。
ああ、ここまで書いて気づく。
1949年に初演された本作、アーサー・ミラーの戯曲「セールスマンの死」がクラッシック、不朽の名作たる所以を。
アメリカが当時の豊さと引き換えに、ノーマン家のような家族の価値観を違え、崩壊に導く様は、あなたの、そして私の家族の物語の一部なのだ。(だとしても、ウィリーのように人生の終盤でこのような目に遭わないよう、選択を誤らないでおきたいものだ)
台詞劇の中、舞台転換で飽きさせない。自転車に乗る青年が時を流れを表しているのだろうか。現実と回想のシーンも混乱することなく楽しめた。
鑑賞後、数日経ってのことだ。別の小説やTEDで聴いた話の影響も確かにあるのだけれど、ダイニングに立つリンダの姿を思い出しながら「私の言葉を遮るな!私の話を最後まで聞け!」と大声で怒鳴り散らしたい衝動にかられた。
ひょっとして全人類の女性が、一生に一度は経験する衝動ではないだろうか。