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はやし蜜豆の犬も歩けば棒に当たる、

好きな俳優の作品を集中して観るのが好き。その記録や映画の感想、日常気になる現象をぼそぼそ綴っていきます。

「カムカムエヴリバディ」- 16 :”意味があろうがなかろうが、誰かを思ってやることがあってもいい”

「カムカム」が終わって随分経ったけれど、今でも思い出して心の中で何度も言い聞かせる台詞がある。

終盤、生き別れた母親に会いたくて、母に聴いてほしくて「On The Sunny Side Of The Street」を歌うるい(深津絵里)。しかし、娘と会うつもりはない母の意志を知って、歌うことに意味があるのか・・・とふと漏らした時、るいの友人のベリー(市川実日子)が「意味があるかどうかわからないけれど、誰かを思ってやることがあってもいいんじゃない」と言葉をかけるのだ。

 

それをやって意味があるの?ということだらけの私の日常。

例えば、老々介護をしている両親の元に月1回帰って(しかも1泊のみ)、掃除と父の食事、2回分を作りおいてくること。

ほぼ毎日夕方7時台に父に電話をかけること。

夕食を食べない娘に、彼女が翌朝少しでも口にするよう、作った夕食を少量取り分けておくこと。(食べようが食べまいが)

老犬の乾燥する耳(そのせいで毛が薄くなっている)に保湿剤を毎日つけること。
(同時に目薬も差すのだが、それは確実に目ヤニの改善になっている)

どれも物理的には意味があると思うが、その背後にある私の思いは対象者に届いているか甚だ疑わしい。いちいち恩着せがましく言うわけでもないし、そもそもそんなことは頼んでいないと言われるのがオチだ。

でも、我ながら律儀な私は決めたことをやり続けている。

時々父には、あれこれ心配してかける私の言葉に邪険な反応をされたり、娘は朝も起きられず食事もせずに学校に急ぐ日もある。

やれやれ、と思う時、あの市川実日子の言葉に励まされる。私の思いが届こうと届くまいと、誰かを想ってやる行為は尊い・・・はず。そして、世の中の多くの娘や母親が、同じような思いをきっとしているのだと、ふと思う。

 

 

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