数年前からエモいCMが溢れている。
先日、久しぶりにWebCMでぐっとくるのを見た。
東京ガスのCM、家族の絆「母とは」だ。「母とは、」と息子役の岡山天音の声で、母親あるあるを渡辺えりが次々と見せてくれて微笑ましいと思っていたら、終盤「母とは、いつの間にか歳をとってる」という台詞でぐっときた。
この手の企業WebCMは、よくある。コロナ禍で友人や離れた家族と会うのを控えた人は多い。お茶の間で見るテレビCMもやたら感情に訴えるものが多かった記憶がある。
世間はそんなに”エモ”を欲しているのか?というよりも、ここまでくると”エモ”の押しつけみたいだ。
しかし同時に、私自身がエモに目がいきやすい、”エモ”が好きなのだ、ということに気づく。
確かに自分のブログでもエモい気づきをよく書いてしまう。感受性が豊かとか繊細とか言えば聞こえはいいが、エモを求めない人にとっては、結構面倒くさい人間には違いない。一緒にテレビを見ていたら、一人涙ぐんでいたり、気が付いたら涙目で訴えていたり・・。
で、ふと思った。そんな私の周りにいる家族は、私の感受性とは程遠く、”エモ”ストーリーをスルーしがちであることに。しかも現実の”エモ”いシーンやお話に対して!
実家の親もそうだ。
そういった細かな感情はどこかにおいて、介護している父も介護されている母も日々生きることに専念にしている様子だ。
そして、自分の家族も同様な気がする。”生きることに専念・・”ではないにしても、自分の好きなことにまい進、とでもいおうか。
私が老犬がくうくう寝ているのを見ては、あと何年こうして上下するモフモフのお腹を眺められるかなあと、しんみりしたり、実家に帰ってクロネコヤマトのマグカップを見てしみじみしたり(先日書いたブログはこちら)。誰も何とも思っていない事々なのだ。
些細な気づきに感動したり、その気づきを披露したりしていた若い頃、同僚から「蜜豆さんは、人生を丁寧に生きすぎている感じがする」みたいなことを言われた。
さもありなん。
いちいち”エモ”事象に心を砕く性格は、もっと効率よく、判断ミスなく、的確に物事を運ぶのに時に邪魔になっているようだ。感慨に浸るよりも、とっとと動けと自分に言いたい。
しかし、しかし、”エモ”を感じることは、私にとって小休止でもあるし、生きる原動力かもしれないものなー。
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