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はやし蜜豆の犬も歩けば棒に当たる、

好きな俳優の作品を集中して観るのが好き。その記録や映画の感想、日常気になる現象をぼそぼそ綴っていきます。

東京ガスCM 家族の絆「母とは」篇:私の周りは誰もそれほど”エモ”を求めていない!?

数年前からエモいCMが溢れている。

先日、久しぶりにWebCMでぐっとくるのを見た。
東京ガスのCM、家族の絆「母とは」だ。「母とは、」と息子役の岡山天音の声で、母親あるあるを渡辺えりが次々と見せてくれて微笑ましいと思っていたら、終盤「母とは、いつの間にか歳をとってる」という台詞でぐっときた。


www.youtube.com

 

この手の企業WebCMは、よくある。コロナ禍で友人や離れた家族と会うのを控えた人は多い。お茶の間で見るテレビCMもやたら感情に訴えるものが多かった記憶がある。
世間はそんなに”エモ”を欲しているのか?というよりも、ここまでくると”エモ”の押しつけみたいだ。
しかし同時に、私自身がエモに目がいきやすい、”エモ”が好きなのだ、ということに気づく。
確かに自分のブログでもエモい気づきをよく書いてしまう。感受性が豊かとか繊細とか言えば聞こえはいいが、エモを求めない人にとっては、結構面倒くさい人間には違いない。一緒にテレビを見ていたら、一人涙ぐんでいたり、気が付いたら涙目で訴えていたり・・。

で、ふと思った。そんな私の周りにいる家族は、私の感受性とは程遠く、”エモ”ストーリーをスルーしがちであることに。しかも現実の”エモ”いシーンやお話に対して!

 

実家の親もそうだ。

そういった細かな感情はどこかにおいて、介護している父も介護されている母も日々生きることに専念にしている様子だ。

そして、自分の家族も同様な気がする。”生きることに専念・・”ではないにしても、自分の好きなことにまい進、とでもいおうか。

私が老犬がくうくう寝ているのを見ては、あと何年こうして上下するモフモフのお腹を眺められるかなあと、しんみりしたり、実家に帰ってクロネコヤマトのマグカップを見てしみじみしたり(先日書いたブログはこちら)。誰も何とも思っていない事々なのだ。

些細な気づきに感動したり、その気づきを披露したりしていた若い頃、同僚から「蜜豆さんは、人生を丁寧に生きすぎている感じがする」みたいなことを言われた。
さもありなん。

いちいち”エモ”事象に心を砕く性格は、もっと効率よく、判断ミスなく、的確に物事を運ぶのに時に邪魔になっているようだ。感慨に浸るよりも、とっとと動けと自分に言いたい。

しかし、しかし、”エモ”を感じることは、私にとって小休止でもあるし、生きる原動力かもしれないものなー。

 

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久喜の好きな陽だまりは

5月だというのに、今のところ五月晴れの日は少なく、どんより曇って肌寒い日さえある。久しぶりに爽やかに晴れた今朝、今日は5月らしい気温になるかしらんと思っていたのだが、晴れていても風が強く、意外と肌寒い。部屋の中にいると、シンとした寒さを感じる。

どうやら私だけでなく、久喜もそのように感じるらしい。(二人とも寒がりだからね)

季節が巡って部屋に差し込む日差しの角度が直角に近くなり、久喜の愛する陽だまりが部屋の真ん中あたりにいる久喜には届かない。すると、窓際にようやく届いている日差しににじりよっていく久喜。陽だまり、恋しい~、ってか。

久喜のクッションを窓際に移動して少しでも体に日が当たるようにしてあげた。

久喜はそれなりに暖かく感じたようで、幸せな午睡に入った。

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「カムカムエヴリバディ」- 16 :”意味があろうがなかろうが、誰かを思ってやることがあってもいい”

「カムカム」が終わって随分経ったけれど、今でも思い出して心の中で何度も言い聞かせる台詞がある。

終盤、生き別れた母親に会いたくて、母に聴いてほしくて「On The Sunny Side Of The Street」を歌うるい(深津絵里)。しかし、娘と会うつもりはない母の意志を知って、歌うことに意味があるのか・・・とふと漏らした時、るいの友人のベリー(市川実日子)が「意味があるかどうかわからないけれど、誰かを思ってやることがあってもいいんじゃない」と言葉をかけるのだ。

 

それをやって意味があるの?ということだらけの私の日常。

例えば、老々介護をしている両親の元に月1回帰って(しかも1泊のみ)、掃除と父の食事、2回分を作りおいてくること。

ほぼ毎日夕方7時台に父に電話をかけること。

夕食を食べない娘に、彼女が翌朝少しでも口にするよう、作った夕食を少量取り分けておくこと。(食べようが食べまいが)

老犬の乾燥する耳(そのせいで毛が薄くなっている)に保湿剤を毎日つけること。
(同時に目薬も差すのだが、それは確実に目ヤニの改善になっている)

どれも物理的には意味があると思うが、その背後にある私の思いは対象者に届いているか甚だ疑わしい。いちいち恩着せがましく言うわけでもないし、そもそもそんなことは頼んでいないと言われるのがオチだ。

でも、我ながら律儀な私は決めたことをやり続けている。

時々父には、あれこれ心配してかける私の言葉に邪険な反応をされたり、娘は朝も起きられず食事もせずに学校に急ぐ日もある。

やれやれ、と思う時、あの市川実日子の言葉に励まされる。私の思いが届こうと届くまいと、誰かを想ってやる行為は尊い・・・はず。そして、世の中の多くの娘や母親が、同じような思いをきっとしているのだと、ふと思う。

 

 

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「星新一の不思議な不思議な短編ドラマ」【不眠症】:NHKならではの楽しい試み

星新一と言えば、私が小学生高学年の頃、文庫本で読んだ最初の作家ではなかっただろうか。当時、私は文庫本を中高生以上、大人が読む本と思っていたので、読書について少し大人の仲間入りをした気分になったものだ。
ショートストーリーは子供にも読みやすく、しかもSFだったりちょっとしたホラーだったり、夢中で読んだが、残念ながらほとんど忘れてしまったし、覚えていても断片的だ。この【不眠症】については記憶になかったのだけれど、オチが2段階になっているんだ。星新一らしい結末。

 

脚立から落ちたことで不眠症になり、眠らなくてもやっていけることに気づき、眠りを放棄した男(林遣都)。しかしふと、その眠りが至福であり、眠ることで孤独からも解放されると信じ、超高額な眠り薬を服用・・。それから目覚めて・・。うぎゃーっっていうオチ1。そのあとオチ2。

不眠症に対して変化する男の感情表現が秀逸。青髭、ぼさぼさ頭、不眠でギラギラした大きな目がヤバい感じの人そのもの。ショートドラマ15分間、コロコロ状況が変化してテンポよく面白かった。

www.nhk.jp/

今、NHKの公式ページをチェックしたら、8/9.16は窪塚洋介が出演予定になっている!これまたチェックしなければ。演技している最近の窪塚洋介を観たいもの。

 

 

「セールスマンの死」(PARCO劇場):名作はわかるが、ヘビーな作品だった

鑑賞中、1ミリも登場人物の誰にも共感できなかった。

主人公のウィリー・ノーマン(段田康則)は、敏腕セールスマンだった過去の栄光が忘れられない。60歳を過ぎ、彼から品物を買う人もおらず歩合収入の生活は苦しい。
それなのに「男はビッグビジネスをしてなんぼ」「ビッグビジネスをした俺はえらい」という考えに固執し、息子たち(ビフ=福士誠治・ハッピー=林遣都)にその考えを押し付ける。
保険料とローンの支払いのため、友人(チャーリー=鶴見辰吾)に金を借りるくせに、友人が用意した仕事にはプライドが高くて就こうとしない。
家族を心配する妻(リンダ=鈴木保奈美)の助言や言葉を、ややもすれば遮ってばかりいる。「女は黙っておけ」とばかりに。

アメフトのスター選手で自慢の息子だった長男のビフ(福士)は、高校卒業に失敗し、30歳を過ぎても職探しの身だ。その現実にも向かい合おうとせず、ウィリーの過剰な期待と反動の怒りはビフを追い詰めていく。

終盤クライマックスともいえるビフの「パパ、僕はクズなんだ」本当の自分を見て、と父親にすがる姿に思わず目をつむってしまった。自分のことを「クズ」だと泣きながら叫ぶ子どもが不憫で、親としての私自身にもその叫びが突き刺さった気がしたから。

なぜありのままの息子を受け入れてやれなかったのだろう。スター選手だった息子を持ち上げ、甘やかし、”見栄えが良くてはったりがあれば世の中渡れる”と説いたのは、父親ではなかったか。

次男のハッピー(遣都)にも触れておくと、女好きでその場しのぎの性格の彼は、子どもの頃から憧れだった兄の現在の体たらくを適当に励ますばかり。親父が自殺しようとしているかもしれないと兄に言われても、まるで頓着しない様子だ。根拠のない自信を兄に求め、とにかく言動が軽い。
そのハッピーに比べて、自分をクズと言ったビフは、実は繊細で優しい兄であることに気がつく。

それにしても、母親のリンダが二人の息子に引導を渡すように、いいかげん家から出ていけと言い放った時はなんだか小気味よかった。
セールスマンの夫を尊敬し、2人の息子を愛し、社会が豊かになっていく過程で我が家も豊かになると信じて生きてきたリンダ。夫の前では出過ぎず、しかし豊さに必要なお金はきっちり要求するしたたかさも持っている。

 

ああ、ここまで書いて気づく。
1949年に初演された本作、アーサー・ミラーの戯曲「セールスマンの死」がクラッシック、不朽の名作たる所以を。

アメリカが当時の豊さと引き換えに、ノーマン家のような家族の価値観を違え、崩壊に導く様は、あなたの、そして私の家族の物語の一部なのだ。(だとしても、ウィリーのように人生の終盤でこのような目に遭わないよう、選択を誤らないでおきたいものだ)

台詞劇の中、舞台転換で飽きさせない。自転車に乗る青年が時を流れを表しているのだろうか。現実と回想のシーンも混乱することなく楽しめた。

 

鑑賞後、数日経ってのことだ。別の小説やTEDで聴いた話の影響も確かにあるのだけれど、ダイニングに立つリンダの姿を思い出しながら「私の言葉を遮るな!私の話を最後まで聞け!」と大声で怒鳴り散らしたい衝動にかられた。

ひょっとして全人類の女性が、一生に一度は経験する衝動ではないだろうか。

 

stage.parco.jp

 

 

 

 

 

 

実家にて:クロネコヤマトのペアのマグカップ

父が母を老々介護している郷里に、月1回帰省している。

 

毎朝、母と自分のトーストとコーヒーを用意する父。昔母がしたように、ペアのマグカップにインスタントコーヒーをたっぷり注ぐ。

どれだけ、宅急便を利用したらこのネコのキャラクターが描かれたマグ2つをもらえるのだろうか?

私が家を出て大学に通いだしてから、そして姉が結婚してから、そのかなり後に私が結婚してからも、両親はお米のほかに季節のフルーツや父が石臼でついた餅、お中元やお歳暮でもらったゼリーやお菓子など、私たちが好きそうなものを年に何回も送ってくれていた。母は段ボールに隙間なくものを詰める達人になっていた。

娘たちへの愛情の記念品みたいに、欠けることもなく何十年もカップホルダーに仲良くぶら下がっているマグ。きれいに洗って掛けておく。

これがまだしばらくは現役で使われ続けますように。

 

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※「クロネコヤマト マグカップ」で検索したらメルカリでたくさん売りに出されていた。これ、販売されていたもの?でも両親がそういったものを買うとも思えず、たぶんもらったものだと思います。

 

 

最近久喜の写真を載せないのは

仕事をしている部屋で、久喜は寝ている。

寝息を立てた時や、ふと目をやっ時に写真を撮っていたけれど、久喜は敏感だからよく起きる。

犬、特にシニア犬は18~20時間寝るらしく、睡眠を妨げられるとストレスになるらしい。それを読んで、久喜が丸まっている時は、モフモフに顔を埋めたくなっても、写真を撮りたくなっても我慢することにしたのだ。

この写真は以前撮ったもの。

顔のか形がスリッパで、私のお気に入り。


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