ある夜、ひとりの男(鈴木浩介)の日常に忍び寄る、見知らぬ「9人家族」の足音。
祖母(浅野和之)、父母(山崎一・キムラ緑子)、3人兄弟(林遣都・岩男海史・大窪人衛)、3人姉妹(富山えり子・有村架純・伊原六花)から成る9人家族は、それぞれに親しげな笑みを浮かべ、口々に隣人愛を唱えながら、あっという間に男の部屋を占拠してしまう。ー公式サイトよりー
9人もの他人に家を占拠され、多数決によってきまった仕事(家事)をするために仕事も辞め、皆の生活に必要だからとお金まで管理されてしまう男。この上ない理不尽な状況が、舞台中央に寝かされたドア(=外の世界、世間との境界)だけがある男の家の空間で恐ろしくも展開されていく。ドアを開けるとその下は”奈落”、階段を使って役者たちは外と家の中を行き来する。ドアが垂直でなく床と水平にあるという、異様でシンプルな舞台装置が、追い詰められる男の家の空間として効いている。
安倍公房原作の不条理劇「友達」を、新進気鋭の若手演出家、加藤拓也がリライト、演出。
9人の家族以外に登場する、男が助けを求めて呼んだ警察官、デートの約束で会った恋人、管理人、相談した弁護士、すべて腰に太いロープが結ばれ、どうやら何かとつながっている。”世間”とつながっているのだろうか?
9人の家族は口々に言う。一人は寂しいだろうから家に来てあげた。多数決は正しい。多数決に従えない時は、”正義”という名の暴力を発動するしかない。
笑みをたたえながら理路整然と男を諭す、父親(山﨑一)が一番不気味。
そして男に思いやりを示し、男の家事を手伝う心優しいと思えた次女(有村架純)の豹変ぶりも、背中に寒気がくるような残酷さがある。
ニコニコ笑いながら、家族の財布を盗む長男(林遣都)。盗んだことがバレても、これは”共有”だと開き直る明るさは何なんだろう。
ルール、多数決、民主主義、隣人愛、友達、つながり、世間・・・いろいろなキーワードともとれる言葉が出てくる。
これは、イジメの構図か?
SNS上だけのつながりで満足したふりの現代人へのメッセージか?つながることは大切か?
多数のものが少数のものを圧倒していく様は、かつてはアメリカ大陸やオーストラリアでなされた植民の歴史か?そして、今も世界のどかで続いていることか?
上記は、ライブ配信後、アーカイブを3回観て、何日間か反芻した結果の私の解釈の断片。こういった不条理の世界の解釈に正解も不正解もないだろうが、鑑賞した人、どう思う?
有村架純の活舌の良さと響く声、可憐な佇まいなのに、その存在感に感心。
林遣都は、うーん、「フェードル」の時がメチャクチャカッコ良かったからなー。
家族の中の子供たち6人、兄弟3人、姉妹3人のすべてが、自分勝手で意地の悪い感じなのだけれど、林遣都だけちょっと”いい人”感が残っていたような気がする。(敢えてかもしれないし、いい悪いではない)
有村架純は意地悪というより、優しい笑顔が逆に悲しかった。
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