美しさをお金と勇気で手に入れることができると思っている今の若い子たちに、「ベニスに死す」のビョルン・アンドレセンを見てほしい。
何百万円もかけて人の手によって理想に近づけた顔よりも、自然が偶然に創った彼の顔の完璧さにはかなわないと思う。
それにしても「ベニスに死す」で、ビョルンはほとんど演技という演技をしていない。
「世界で一番美しい少年」のドキュメンタリーの中で本人が言っているが、ヴィスコンティ監督からの指示は「行け、止まれ、振り返れ、また行け」の4つだったとのこと。ビョルン本人がそこにいることで、画は成立した。そんな感じだ。
演技がうまいわけではなかったのだと思う。もともとは音楽をやりたかったそうだ。演劇学校に通い始めたころ、結婚し子供にも恵まれたが、大きな作品、役には恵まれなかった。第2子の突然死という悲劇にも遭い、鬱と酒に溺れ、少年の美しさをなくした若い俳優を世間は忘れていく。
ドキュメンタリー「世界で一番美しい少年」の冒頭の登場したビョルンは、セルフニグレクトに近い状態で不潔な部屋に住み、アパートを追い出されそうになっている孤独な老人だった。「ベニスに死す」以後、彼は金や権力のある人には、まるで”飾りモノ”のように連れられ、大衆にはその美しさを短期間に消費された。俳優、少年(子役)であること以前に、”美”と”性”の(しかも、絶対に触れてはいけない)対象として世界中に晒された15歳の少年を、その美しい顔ゆえの悲劇と言えるのだろか。
ちょっと意地悪な考え方かもしれないが、ビョルンにもう少し意気地とガッツがあったならどうだろう。唯一無二の美顔を利用してチャンスをモノにし、その後も演技を磨き、もしくは音楽の道を切り開けなかったのだろうか。
60歳代になったビョルンが映画の中で振り返るのは、父親を知らず母親が出奔の後、自死するという複雑な家庭に育った過去。美しいというだけで世界の寵児になるには、彼は繊細すぎ、享受するべき愛情も、そして育まれるべき自信も不足していたのだと思う。
きっと、あの美しさを持ち合わせなければ、そしてヴィスコンティに見出されなければ、全然違った人生が彼にはあったのだと思う。
そして本作を観て頭をよぎったのは、これは男性側からの”Me Too"なのではないかということ。
老人になった美しかった少年が、汚部屋から脱し、自分の娘といい関係を保ち、俳優として、一人の人間として、少しでも明るい人生を歩んでほしいと思った。
「世界で一番美しい少年」のラストで流れる、日本でレコーディングした彼の歌声は、ほぼ完ぺきな日本語とは対照的に、まったくそこに感情が感じられない。(意味があまりわからずに歌っていたとしたら当たり前か)
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