母が緊急入院した後、リハビリ病院へ転院、そして先月末、療養型病院に転院した。
父は、母が入院してから母のいない寂しさを紛らわすため、日々感じたことを書き留めているようだ。あまり罪悪感もなくパラパラとめくったが、父の悪筆から日々増していく寂しさをが伝わってきた。
1カ月半ぶりに帰省して、また同じところに置いてあったので、開いて見ると最近はあまり書いていないようだった。母への感謝や私の帰省を楽しみにしている様子が書かれてあるのを見て、たまらなくなりすぐ閉じた。
父とは会話らしい会話がない。私が帰省しても喜んでいる様子はないし(だけど布団を干してくれているのを見ると、ちゃんと歓迎してくれているのがわかる)、認知機能が衰えていることもあり、難しい会話は続かない。面倒な話、耳の痛い話は聞こえないふりをする。まして、気に障ることを言うと地雷を踏むことになり、声を荒げて怒り出すものだから、父とは当たり障りのない短い会話しかない。
日記は父の本心が垣間見られ、それが私にとって厳しい内容でなかったことに少し救われた。
私が自分の感情や考えを文字にするという作業を通じて心を整理するのは、父親ゆずりなのだと思う。父が最近日記を書いていないということは、母のいない家で一人食事を作り、一人で食べ、毎日母のところに通うことを生きがいに暮らす生活に慣れてきたということだろうか。
母が療養型の病院に転院した時、父は「お母さんは、もう死にに行くんじゃ」と言った。確かに、嚥下、身体のリハビリはやらなくなり、このまま老衰していくのを静かに看守る感じなのだと思う。
始めて面会に行った今回、リハビリ病院ではなかったミトンが母の両手にはめられていた。転院したその夜、手が当たって近くにあった水をこぼしたことが理由で、手をベッドに拘束されていたらしい。父が翌日に面会に行って見つけ、それを聞いた姉がせめてミトンにしてもらえるよう頼んだ。
私との面会で母が唯一小さな声で言ったのが、ミトンの手を少し上げて「はずして」だったことを思うと、可愛そうでならない。
病院側の理由もあるとは思うし、24時間看ているわけでもないのだからミトンは仕方がないと自分の中で収めたが、病室を出る時「バイバイ、また来るね」と言ったらミトンの手をわずかに、でも一生懸命振ってくれる母を見て泣けてきた。
あと何回母と会えるのだろう。でも母が新年を迎えることができると、なぜか確信に近く強く思っている。