初日は先生から、今の病状について、今後起こりうること、延命治療のこと、次の転院先のことなど結構な時間をかけて丁寧な説明を受けた。
2日目は、ソーシャルワーカーさんと転院先について。前述のとおり母と話せたことで、私たち家族はいくぶんほっとしていた。
そして3日目。姉妹でそれぞれの家に帰る前に母に会いにいった。
母は、自分のおかれている状況をかなり理解していた。そして「家に連れて帰って」と何回も言った。
辛かった。
介護サービスを受けるようになって、母が自分から希望や要望を言うことはなかった。父の言うことに従い、病院、デイサービスでは、いつも感謝の言葉とともに、言われるまま一生懸命リハビリに取り組んでいた。
その母が、たんが絡んで苦しそうに咳き込みながら、必死で声にする言葉が「家に連れて帰って」。それに対して「肺炎が治って自分で食べ物を飲み込めるようになったら家に帰れるよ」としか言えなかった。
そして私たちは、その可能性がかなり低いことをうすうす感じていた。
母はうなづきもしなかったけれど、「お父さんは?」と言った。
父と二人の老々介護の約2年半、お互いの存在が生きる縁(よすが)となっていたと思う。このまま2人一緒に過ごせなくなっていいのだろうか。
医師の話は、さまざまな事例やデータに基づいて、こういう場合こういう経過をたどり、こういう処置をとるとこうなります。これをすればこのくらい生きられて、これをしなければこのくらいで命は尽きます・・・しかし、これをすると身動きができません・・・
まるで、あとどのくらい母に生きてもらうかを皆で検討しているようだった。
母の寿命は天が決めるものだ。
母がどのくらい生きるかは、母が嚥下力を回復できるか、母がもう一度、食べ物を口から食べたいと思うか。そういうことなのだと思う。自分だったらどうだろう。たんが絡んでゼイゼイと息苦しい。しゃべろうとすると咳が出る。2時間おきにたんの吸引を24時間態勢でやってもらっている・・。
私なら食べたいと思うかもしれないけれど、苦しいのが続くのは嫌だと思った。(そういえば母は胸を指して、ここが苦しい、と言っていた)
ついでに思ったのは、家族に看取られたいか?母はたぶん、父には看取られたいと思う。ついでに我々がいても許してくれるだろう。
私だったらどうだろう。ひょっとして一人で逝ってもいいかな、と思った。なんだか自分の最期の瞬間を誰かに看て欲しいと思わないような気がした。一人で、ふう、と一息ついてこの世とさようならするのもいいような気がした。それは、今だから思うことかもしれない。20年後は考えが違っているかもしれない。当たり前だけれどその時の状況にもよるよね。
岡山での3日間、ずーっと頭の片隅で「切手のないおくりもの」が頭を回っていた。