毎年、花見を必ずする。
娘が中学生までは、家族3人でどんな状況でも花見らしいことを実行した。天気にも左右されるから休日にできない時は、平日夜桜を見に近所の公園に3人で出かけた。缶ビールとおにぎり、一応シートまで持参したりして。今年、Facebookの〇年前の思い出という機能で、その時撮った夜桜が出てきて懐かしかった。
去年は家族とではなく、友人と上野公園に行った。
今年は、同僚と激込みの中目黒川沿いを歩いた。また、ワンコと多摩川沿いの桜並木を何度か歩いた。
実は今年、ほぼ満開の桜を見ても心の中からきれいだと思わなかった。天気のせいだろうか。人込みの中で見たせいだろうか。(人込みでも見事な満開だったのは事実)多摩川の桜も近所の立派な枝ぶりの桜も、花曇りの中、年々白くなっていくソメイヨシノがはかなげに揺れていた。
桜を見てきれいだと思えない自分にショックだった。
毎年、桜を見て今年も桜を見られて良かったなと思うことが多かった。桜の美しさを愛でる以上に、一緒に見た隣の人を想い、小さくても大きくても幸せを感じていたと思う。
桜を美しいと思えない自分の心持ちについて考えたが、どうもこれだというのが思い当たらない。
入院中の母のことが心の隅でいつも気になっているから?
毎日電話する父の声の張り具合のせいか?元気だと少し私も元気が出るし、沈んでいると心配で少しだけ気持ちが落ちる。そんな状況のせいだろうか。
時々感じる、腰からくる足の鈍痛のせいだろうか?
桜を心からきれいだと思えなかった自分の中の理由を考えながら、昨日の春の嵐で花ちりぬ、を予想しながら多摩川に行ってみた。
すると、予想に反してしぶとく多くの花が枝にしがみついていた。
肌寒い夕方、7割くらいになっても咲き誇っている桜を見て、つえーな。と思った。
きれいだねえ、ではなく、つえーな。
桜を見て、そう思える年もあっていいか。
写真は、目黒川と、多摩川(先週)の桜&久喜