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はやし蜜豆の犬も歩けば棒に当たる、

好きな俳優の作品を集中して観るのが好き。その記録や映画の感想、日常気になる現象をぼそぼそ綴っていきます。

「帰れない男~遺留と斡旋の攻防」/本田劇場:まずは自分なりに考察

(本作をこれからご覧になる人は、先入観なく観るために鑑賞後に読んでいただければと思います。)

 

馬車に轢かれそうになった若い女(藤間爽子)を助けた小説家、野坂(林遣都)は、女の住む屋敷に招き入れられた。雨が降っているなどと、なんだかんだと言って女は帰ろうとする野坂を引き留めるようなふるまいをする。そうするうちに女に歳の離れた夫がいること、この屋敷にはいつも客が来ていることなど、野坂はだんだんと屋敷と女に興味を持つようになる。
その上、帰宅した亭主(山崎一)から野坂は”先生”と呼ばれ、女を助けたことを大げさに感謝され、若い妻と自分には先生のような客人が必要だと歓待される。亭主は、妻は銀座のカフェで給仕をしていた女で賢くない、話していると不安な気持ちになると言い、野坂に女への興味を抱かせる。

何日も帰ってこない野坂を、友人の西城(柄本時生)が連れ戻しにくる。
二人のやり取りで、野坂の恩人が野坂の妻に言い寄り不倫に至ってしまったことがわかる。野坂は恩人を責める代わりに、妻を激しく非難したらしい。しかし、心のどこかで自分より優位にあったはずの恩人が、自分の妻を欲したという事実に優越を感じた。
野坂にも帰らなくても妻からは非難されない理由があったわけだ。

その一方で不倫騒動が落ち着いたら、妻を自分にゆずれと野坂に頼む西城。

 

副題にある~遺留と斡旋の攻防~。野坂を遺留するのは女、そして野坂に自分の妻を斡旋するのは亭主。その攻防とは、野坂を間にして一組の夫婦の存在の駆け引き(攻防)だったのではないか。
亭主は先妻を亡くし、若い女を妻にしてから変わってしまったと女中の文子(佐藤直子)が言っていた。客を招き宴会をすることで女を飽きさせないよう、寛大な亭主でいたかったのだろうか。

そしてなんだかんだと半年ばかり屋敷に居続けた野坂は、ついに小説1本を書き上げる。それは彼が興味を持った女、広い屋敷とその住人がヒントになっていたに違いない。亭主は嬉々と出版されたばかりの本を買い野坂に署名を所望した。

出版を屋敷で祝うその日、女と女中が花を生けたハサミの所在で言い争う。女の頑固さが頭にきたのか、野坂が激しく女を非難した後、亭主は静かに部屋を出ていき、女が広間に置き去りにしたハサミで自らを突いた。

亭主はなぜ死んだのか。(死のうとして死んでいないのかもしれないが)

野坂の小説には亭主と妻の関係が客観的に描かれ、もしかしたら野坂と妻が惹かれあったことも暗に描かれていたのかもしれない。そして自分の前で妻を激しく非難する野坂の行為は、決して自分にはできないことだった。
女と亭主。二人の攻防は亭主が身を引いて終わったということだと思った。

それにしても、この夫婦、そして野坂夫婦。そこに愛はあったのだろうか。そういう表現が一切でてこなかったように思う。あくまで、関係性とお互いの間で起こった事実のみが台詞としてあっただけのような気がした。そういう意味では愛憎劇ではなかったなあ。それとも”攻防”の裏に”愛憎”があるの??

 

舞台前面に平行して長い廊下、廊下の向こう側に野坂が居座る客間、その向こうに中庭があり、中庭の向こうには客をもてなす広間。廊下と部屋と外(中庭)という劇空間に、雨、風、雪といった自然現象が添えられる舞台はとても幻想的で美しかった。
廊下を歩く、あるいは小走りに行き来する登場人物たちの様が面白く、特にその長い廊下は下男(新名基浩)のためにあるんじゃないかと思うほど、彼は廊下上で活躍していた。

女中の佐藤直子の円熟した演技が、実は観終わった後一番印象に残った。
人がいいのか悪いのか、女の味方ではなかったが、慈愛深い人のはず。笑い方、笑い声の使い分けも面白かった。

 


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