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はやし蜜豆の犬も歩けば棒に当たる、

好きな俳優の作品を集中して観るのが好き。その記録や映画の感想、日常気になる現象をぼそぼそ綴っていきます。

ゆずの香り ― 五感にきっと記憶される・・・

昨日、湯船に入れたゆずの香りが風呂場から1階に漂っていた。

 

実家から戻って2日後のことだ。2㎏くらいの米の袋が二つと、一見すると傷みが目立つ柑橘類が複数個入った段ボールが父から届いた。

父が米を作るのを止めて2年は経つというのに、実家の米専用貯蔵庫には、まだ米がたくさんあるらしい。実家から米を送ってもらわなくなって久しいのに、また気まぐれに送ってきたのかな。

柑橘類はゆずだった。大きいので蜜柑かと思ったが確かに色は黄色だ。風呂に浮かべるといいよ、と父は電話で言った。

この間帰省したことへの感謝の意だろうか。

 

米の入った袋が小さいことで、父に力が無くなったことを痛感する。以前定期的に米を送ってくれていた時は、5㎏ほど入った袋が二つ入っていた。それを配達所に持ち込むだけでも力仕事だ。

数年前から米は送らなくていいよと言っていたが、私たち姉妹、孫のために米を作らなければと思っていたふしもあり、送ってこられる米を有りがたくもらおうと姉とも言い合っていた。

 

月1回の遠距離介護とも言えない帰省を、感謝してもらうには忍びないけど、気まぐれでも思い立って米と庭に転がっていたゆずを送ってくれる父が、やっぱり有り難くて、ゆずの香りの中で朝から一人でじーんとしてしまった。

それと、ゆずの中には傷んだものもあり、選別していた時にゆずについていた枝の棘が無防備な人差し指をぶすっと刺した。それが結構いつまでも痛い。選別したこと(傷みがひどいものは捨てた)を父が怒っている?それとも痛みと共に父の有難さを思い出すようにってこと?

何でもいいが、ただのいい話で終わらない父からの贈り物。それでもやっぱり有難いと思う。

 

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ハプニング3連発

実家に帰省した昨日の午前中、身の回りで起こったハプニング3連発。

その1 

朝、駅まで送ってもらおうと車に乗ったとたん、20メートルくらい前方で通学中の小学生が激しく転び立ち上がらず、人だかりができている。車の進行方向だったので、降りて駆け寄ると、小さな女の子が血だらけ。転んで鼻血が出て泣きじゃくるからよけい止まらないらしい。ダッシュで車に戻りティシュをもっていき止血。周りの子供に先生を呼ぶようお願いして、鼻の付け根をつまんでいると止まってきた。同時に泣き止んだのが良かった。

駆けつけた校長先生と入れ替わり救助終了。ベージュ、裏が白いファーのコートを車において救助した自分、ナイス。

 

その2

その後車で駅に向かう途中、車が電柱に激突した事故現場に遭遇。一瞬事故渋滞か?と思ったが、予定よりは遅れたけれど無事駅に到着。

 

その3

3時間と少し後、岡山駅の改札を出てエスカレーターに乗ったところ、大きな音がしたので振り返ったら、スーツケースがガタガタと落ちてくるではないか!一緒にすみませんすみませんと、叫びながら女の人もかけ降りてくる。私の上部にいた男性は止められず、ならばと左手でウンショっと止めてやった。お礼を言う女性の顔も見ず、バス停に急ぎながら、やれやれと思いながら実はホッとした。

というのも事故現場を目撃した時、悪いことも良いことも二度あることは三度あるとよく言われるではないか。実家で父の運転する車で母の病院に行く時に三度目として、事故に遭うなど起こるかもしれない。

しかし岡山駅でのスーツケース転落事件が起こった。これを三度目だと思うことにしたのだ。

そして、父の運転は先月乗った時よりも危なっかしく感じたけれど、何とか無事2日間母の病院に通うことができた。父の運転免許返納問題は依然あるが、今の状況では車なしで毎日母の病院に通うのは厳しい。バスの乗り換えもかなり不便だし。

父が事故を起こさないように、帰省の度に実家の仏壇にお祈りしている。

 

 

 

藤井風「花」:母を想う

イントロだけで藤井風とわかる、特徴的な中毒性のあるグルーヴを予告するみたいだ。

「枯れていく~」って始まる歌詞もすごいなあと思いながら、いきなり出だしで先月療養型の病院に転院した母の姿が思い浮かんだ。

そしてその次の「今この瞬間も咲いている」で、ガツンと来る。

 

母は食べることには貪欲で、嚥下リハビリの効果もあり、1日3回、経口で食事が取れていた時期もあったが、今となっては痰の吸引が頻繁になりすぎるため食事を控えている。来週からは点滴栄養だけになると言われている。

会う度に細くなり、枯れていく母。

だけどね、”今この瞬間も咲いている”のよ。

目を開けていても、何を見て何を考えているのかわからないけれど、たぶんこちらの言っていることはわかっている。そして人生の最終版、母はぼんやりと、まだらかもしれないけれど、これまでの自分の人生を振り返り整理している時期なのだと思う。

 

ーさりげなく 思いを込めてみる

 やむを得ず 祈りを込めていくー

 

藤井風の紡ぐ歌詞は、どうしてこうもそれぞれの人の状況に寄り添い、その人なりの解釈を寛容に受け入れるのだろうか。

その寛容さ、大きさそのものが、藤井風と言う人の生き方なのかもしれないな、とふと思った。

先週日曜の「TOKIO HOT 100」で2週連続で1位を獲得。サプライズでクリス・ペプラーの前に登場したと聞いて、早速radikoで視聴。

最近ブロッコリーを茹でて数日かけて食べていると言っていた希代のアーティストは、「夢は何ですか?」の問いに「両親に喜んでもらうことですかね・・」と、はきはきとは真逆なしゃべりで番組のエンディングを締めていた。

藤井風。ビッグになっても何も変わらない、その信念、生き方。

愛されるよねえ。そして彼の愛もどんどん世界に広がり、より多くの人に届いているに違いない。

「花」を聞く度に母を思い出し、また会いに行かなきゃと思う。

 

■藤井風の「ガーデン」で父を思い出す、というブログを以前書きました。

www.mitsumame.work

 

■「花」をYouTubeで聴いたあと、伝説の日産スタジオでの無観客ライブ配信が流れてきて「燃えよ」でまた落涙。その時のブログはこちらです。

www.mitsumame.work

 

 

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実家にて:母の転院と父の日記帳

母が緊急入院した後、リハビリ病院へ転院、そして先月末、療養型病院に転院した。

父は、母が入院してから母のいない寂しさを紛らわすため、日々感じたことを書き留めているようだ。あまり罪悪感もなくパラパラとめくったが、父の悪筆から日々増していく寂しさをが伝わってきた。

1カ月半ぶりに帰省して、また同じところに置いてあったので、開いて見ると最近はあまり書いていないようだった。母への感謝や私の帰省を楽しみにしている様子が書かれてあるのを見て、たまらなくなりすぐ閉じた。

 

父とは会話らしい会話がない。私が帰省しても喜んでいる様子はないし(だけど布団を干してくれているのを見ると、ちゃんと歓迎してくれているのがわかる)、認知機能が衰えていることもあり、難しい会話は続かない。面倒な話、耳の痛い話は聞こえないふりをする。まして、気に障ることを言うと地雷を踏むことになり、声を荒げて怒り出すものだから、父とは当たり障りのない短い会話しかない。

日記は父の本心が垣間見られ、それが私にとって厳しい内容でなかったことに少し救われた。

私が自分の感情や考えを文字にするという作業を通じて心を整理するのは、父親ゆずりなのだと思う。父が最近日記を書いていないということは、母のいない家で一人食事を作り、一人で食べ、毎日母のところに通うことを生きがいに暮らす生活に慣れてきたということだろうか。

 

母が療養型の病院に転院した時、父は「お母さんは、もう死にに行くんじゃ」と言った。確かに、嚥下、身体のリハビリはやらなくなり、このまま老衰していくのを静かに看守る感じなのだと思う。
始めて面会に行った今回、リハビリ病院ではなかったミトンが母の両手にはめられていた。転院したその夜、手が当たって近くにあった水をこぼしたことが理由で、手をベッドに拘束されていたらしい。父が翌日に面会に行って見つけ、それを聞いた姉がせめてミトンにしてもらえるよう頼んだ。

私との面会で母が唯一小さな声で言ったのが、ミトンの手を少し上げて「はずして」だったことを思うと、可愛そうでならない。

病院側の理由もあるとは思うし、24時間看ているわけでもないのだからミトンは仕方がないと自分の中で収めたが、病室を出る時「バイバイ、また来るね」と言ったらミトンの手をわずかに、でも一生懸命振ってくれる母を見て泣けてきた。

あと何回母と会えるのだろう。でも母が新年を迎えることができると、なぜか確信に近く強く思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

「役者道~渡辺謙があなたに語る仕事と人生~」(2023年 WOWOW ドキュメンタリー)

全4回にわたる、渡辺謙が一人登場して語る役者人生。

1回、2回、3、4回は一気に見た。カメラとその向こうにいる聞き手に向かって話すケン・ワタナベ。見ている(聞いている)うちに、まるでサシで話しているような錯覚に陥り、居住まいを正して彼の話を真剣に聞く自分がいた。

そして、4回目を見終わった後、なぜか体の芯が熱くなっていた。不思議な体験だった。

 

演技する=役を生きることについて、「己の体をその役に貸す」というように表現していた。「俳優のノート」で山崎努も同じようなことを書いていたのを思い出す。
どれだけの役と向かい、己と戦い、一緒にその役と生きたら、その境地にたどり着くのか、図り得ない。

”役作り”というのも難しい作業だし、演技に正解はないとも。

印象に残ったのは、勝新太郎と共演し(NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」)で、いたく感銘を受け、彼ともう一度共演をしたくて俳優を続ける決意ができたと言っていたこと。
私が持っている勝新太郎のイメージは、豪快、やんちゃ、座頭市、真剣で死者、、そして中村玉緒の旦那ということくらいで、出演作品で覚えているものがほぼない。
あまりいいイメージはなかったのだが、Wikiってみると、唯一無二のとんでもない豪傑俳優であったことがわかる。確かに、勝新太郎に限らず、昔の俳優の中には、豪傑伝説を持った人がたくさんいたよね。でもやんちゃにも、豪快にも、それぞれ信念があったようだ。勝新太郎のそれも、畏敬に値するものだったのかもしれない。

渡辺謙が役者で行くと決めたのは、そんな古き時代が終焉を迎える始まりの頃だったのだ。

ドキュメンタリーの終盤では、今の世の”コンプライアンス”についても大いに語っていた。確かに一理ある。なんでもきれいな部分を強調して描こうとする。そういう作品が、ヒットする。もっと汚い部分、人間の持つ負を描いて投げただけのものがあってもいいだろう。つまり受け取り方までは教えず、それは観る側が考えるということだ。ある意味、考えれば答えがでるような、わかりやすい作品が増えたのかもしれない。

 

ドキュメンタリーなのだから、台本はないだろう。彼自身の考えを彼自身の言葉で話しているが、話は非常にわかりやすかった。聴いているだけでも、彼が思慮深く頭の回転の速い人であることがわかる。

そして、勝慎太郎にしびれ、ハリウッドの洗礼を受け、もがきながら今なお、役者道を追求している渡辺謙の俳優人生を垣間見て、話に登場した「Fukushima 50」「沈まぬ太陽」はmust seeだなあと思った。

Fukushima 50

Fukushima 50

  • 佐藤浩市
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金木犀の香りと「星の時計のLiddell」:心にずっとある名作漫画のこと

今年、自宅周辺、ワンコの散歩中に金木犀の香りによく遭遇する。前からそうだったっけ?と不思議に思う。それとも今まで鈍感で気がつかなかったのか、香りに気がついても気に留めなかったのか。

とにかく今年は、やたらその香りに気がつき、その香りと共に「星の時計のLiddell」(作:内田善美)という少女漫画を思い出している。

 

その漫画と出逢ったのは、遠い遠い昔、私が二十歳前だった学生時代。

美しい装丁の分厚い単行本3巻を手にし、大切に大切に1ページずつをめくりながら、”なめるように”読んだ記憶がある。何度も何度も繰り返し読んだ。(一度では難解で理解できないこともあり)

ずっと実家の本棚で眠っていた「Liddell」と「草迷宮・草空間」を数年前に持ち帰り、娘の本棚に置いている。(決してメルカリで売るな、と釘を刺し)

久しぶりに読み直したか、と聞かれればノーだ。ちゃらっと、ぺらっと読めないんだな、これが。読むぞーと心して、また一からなめるように読むことになるだろうから。

 

金木犀の香りに戻るが、その「Liddell」のお話しの中で、確かLiddellという名の少女が現れる時、金木犀の香りがする、もしくは金木犀が咲き誇る屋敷にその少女が住んでいた・・・みたいなシーンがあったのだ。

金木犀を背景に、カールのかかった長い髪の美しい少女の画まで思い出せる。

花は小さく木としては地味なほうなのに、その香りで存在を際立たせている金木犀と、少女の画が相まって、なんとも不思議な感覚に浸れる。

そして、つい、香りがどこから放たれているのか、遠回りしてでも確かめたくなる。

ほんと、今年になって気づいたのだが、今、我が町は町中そこはかとなく金木犀の香りで包まれているように感じる。香りは木との距離によって、ほのかにも強くにも感じる。

どこだ、どこだ、とキョロキョロしていて、庭木の1本奥の方でそっと地味ーにたたずんでいる金木犀をみつけては、あの画の少女を思い出し、不思議なLiddellの世界がカムバックする。
それは、まるで長い猛暑の後でいただいた”ギフト”のような瞬間だ。

少し忙しさが落ち着いたら「星の時計のLiddell」をもう一度読もうと思う。

 

 

 

 

 

平和な寝顔の久喜

ふと見たら、あまりに久喜が幸せそうな顔をして寝ていたのでパチリ。

2番目の写真は、昨日の朝見たうろこ雲。

秋は確かに来ているのだけれど、今日は午後から30℃の暑さ。

 

9月に入っても猛暑が続いたある日、真夏ではないけれど、どえらく暑いよねえ、と思った時降ってきた言葉。
ど夏

ど真ん中とか、どえらいの、強調の"ど"です。
一人悦に入り、こちらで披露させていただきます・・・。ふふ


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