(ネタバレしています。)
浩輔(鈴木亮平)は、愛する恋人、龍太(宮沢氷魚)が病気の母(阿川佐和子)を支えるために体を売っていると知り、自分が経済的に援助するから”売り”をやめ、それでも足らない分は頑張って働くよう諭す。
出会ってほどなくして惹かれあい、愛し合う龍太と浩輔だがが、高校を中退して病気の母を支えてきた龍太の健気さに、浩輔はできる援助をどんどん増やしていく。それは確かに無償の愛ではあるけれど、注ぎこまれれば注ぎ込まれるほど受ける側は浩輔なしではいられなくなる。情や愛も深まるけれど、それに応えようと誠実な若者は必至で働くことになる。
前半の浩輔と龍太の甘い生活シーンで映された二人のセックスシーンは、その後、龍太の”売り”シーンに変わり、その後カメラは、昼間のスクラップ工場、夜の飲食店で懸命に働く龍太の横顔、背中を繰り返し映しだす。浩輔との優しい生活も合間に入るが、観ている方はだんだん不安になる。龍太の身に何か起こるのではないか・・・。
カメラが近い。ロングで撮っているシーンはわずかで、特に浩輔に関しては、その表情、肩や背中、足や指先と鈴木亮平に寄りに寄っている。つるつるに剃った腕や足。自分の父親に会う時のゲイを隠した表情。仲間との気のおけない食事会。そして龍太との逢瀬。それぞれ微妙に違う顔を見せる複雑な浩輔の心を、鈴木亮平が全身全霊で完璧に表現していた。
龍太は、若さに任せて昼夜問わず働き、(きっと)過労が原因で突然死してしまう。
傷心の浩輔は、自分の関心と慈愛をそそぐ先を、龍太の母親に向ける。母親を早くに亡くしたこともあると思うが、彼は龍太亡き後、彼の代わりになりたかったのだと思う。病気の母親は戸惑いながらも、息子が愛した男からの経済的援助や買い物など身の回りの世話を受けるようになり、病で入院してからは浩輔は彼女にとって息子のような存在に・・。
帰ろうとする浩輔に、余命僅かの病床の母親は「もう少しいて」と頼む。「はい」と答えた浩輔の至福の表情(もはや鈴木亮平が観音菩薩に見えた!)にハッとした。浩輔はその時ついに愛するその人、龍太その人に成ったのだ。
無償の愛を龍太母子に注ぐことは、龍太を自分にとって理想の恋人にしたいから。龍太亡き後の母親への献身は、龍太になりたかったから。
愛すること、与えることで自分を生きる浩輔。なんというエゴイスト。タイトルが腑に落ちた瞬間だった。
しかし、浩輔の生き方をエゴイストで酷いとは1ミリも思わなかった。一人の人間が、立って生きる、一つの生き方だと思った。
本作、ハードな男性同士のセックスシーンが結構あるのだが、いやらしい感じが全くなく美しいとさえ思った。一重に宮沢氷魚の陶器のような白い肌と細長い四肢、茶色い髪のたまもの。純朴にも見え少年のように微笑む彼をおいて、この役にはまる俳優はいたのだろうかと思う。
最期に、本当は弱者で悲劇的な母親なはずなのに、阿川佐和子が演ると可哀そうに見えず、母親の大らかさと優しさが際立ったのが良かった。何よりもこの母親はゲイの息子とその恋人を心から受け入れている。
息子がカミングアウトして「ごめんなさい」と何度も謝ったことを浩輔に伝えながら、謝ることは何もない、と浩輔にも言った時、マイノリティの人の苦しみがストレートに胸にささり、涙が溢れてしまった。
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