90年代の終わり頃まで、横浜に住んでいたり働いていた少なからずの人が「メリーさん」と呼ばれた白塗りのホームレスの老娼について聞いたことがあるのではないか。
90年代中頃、本牧で働いていた私も様々な噂を聞いたし、一度関内にあるビルのお手洗いで彼女を間近に見たこともある。
あの頃から随分経ちメリーさんのことを思い出すこともなかったが、読者になっているhisa24さんのブログで本作のことを知った。
鑑賞動機はただ一つ。化粧を落とした素顔のメリーさんが映っているらしいという軽いものだった。
本作はメリーさん本人にインタビューをしているわけではなく、メリーさん知る人々がそれぞれの記憶にあるメリーさんを語り、謎多き人物像に迫っている。
愛情をもって語る人、理想化した女性として語る人、または憐憫を伴って語る人、または嫉妬心が見え隠れしながら語る人。その中で複数の人が「あの人はプライドが高い」と言っていた。彼女は娼婦としての稼ぎがなくなっても施しを受けるのではなく、何らかの労働の対価として金銭を受け取っていたようだ。
ビルの廊下やベンチを使わせてもらっているビルオーナーにお歳暮を送っていた。
行きつけのクリーニング店、美容院の存在。
友人となったシャンソン歌手のコンサート、当時の県民ホールへの出入り。
どれもホームレスとは思えない、文化的な行動に驚いた。
しかし、最も衝撃を受けたのはやはりラストに映し出されたメリーさんの素顔だ。
私が遭遇した彼女は、写真や映像に残っている白塗りの小さなおばあさんその人だった。アイラインで真っ黒な目の奥が潤んで光って見え、見たとたん言葉もでず平静を装うのに必死だった。しかしスクリーンに映ったその素顔は、目も鼻も小筆ですっと書いたような大正美人のよう。友人の歌う「マイ・ウェイ」を聴く表情は穏やかで、薄化粧をした顔は品があり健康そうに見えた。何十年も路上生活を送った女性とはとうてい思えない”豊な”印象に、なんだか食らわされた気がした。
思うに、ホームレスの老娼に関わった人々が同情や憐憫よりも強く感じていたのは、彼女の孤高への畏敬の念ではなかったか。
娼婦というフィルターはかかってしまうが、美しいモノを愛し、本物を見抜き、そして過去の大恋愛を胸に秘め、自分のスタイルを貫いて一人横浜の街に立ち続けた女性への畏敬。
メリーさんを語る人々を5年に渡り取材し、彼らが生きた時代と横浜の変遷をノスタルジックに描いた本作に、戦後の混沌と”やんちゃ”だった横浜のエネルギーや人情に対する憧憬にも似た愛情を感じた。監督の中村高寛が当時30歳というのも驚きだった。
最後に、メリーさんの友人でシャンソン歌手の永登元次郎さんについて。
戦後、ゲイボーイとして生きたこの人の生き方はメリーさんと重って見えた。映画の公開を待たずがんで逝去されているが、この人にも何とも言えない哀愁と魅力を感じた。
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