母は、去年6月に誤嚥性肺炎で緊急搬送されてから2回転院し、11月から今の病院にお世話になっている。今の病院は嚥下の訓練やリハビリはなく、看取りをしてくれるところだ。程なくして、手や腕からの栄養点滴ができなくなり、足の付け根の血管にカテーテルを取り付ける中心静脈栄養の処置の承諾書を提出した。
これは延命治療の一つだと思うが、それまでかたくなに延命治療はしないと言っていた父が、あっさり承諾していた。どうやら父の考えていた延命治療は胃ろうや管に繋がれた状態になることだったらしい。
それから3か月。母は以前にもまして痩せてきたが、顔の色ツヤはいい。全く口から食べなくなったこともあり、タンの量も減ったようだ。しかし、飲み込むこととしゃべることは同じ喉の筋肉を使うらしく、声を発することがほぼできなくなった。小さくうなずいたり手を握ったり、別れ際にわずかに手を振ってくれたりしても、両目が開けにくく閉じたままのことが多くなってきた。
先日、頻繁に面会に行ってくれている叔母が母の様子を見て、あの状態で病院で死なせるより自宅で看取ることを考えてみたら?と言ってきた。叔母は母の境遇を自分に置き換えて、自分なら自宅でと考えて、母のことを思ってそう言ってくれたのだと思う。
友人が自宅で母親を看取った話をつい聞いたばかりの私は、自宅に連れて帰れば点滴が不十分になり1か月ももたない、つまり母の最期を看取るために1カ月間実家に帰って父と一緒に母を看取ることを考えてもいいのではないかと思った。毎日車で病院に通う父が事故を起こしたり病気で倒れたりするのと、母が逝くのとどちらが早いかわからない、、と嫌な考えも浮かんできたこともある。今度の帰省で、父に相談してみようか・・。
果たして、父は全くそのアイデアを理解しなかった。家で看取るのはどうか?という問いに、家では何もできない。病院でお願いするしかないと繰り返すだけだった。
父の、母に少しでも長く生きていて欲しいという思いだけがひしひしと伝わってきた。
ちょうどその日は、母が数カ月ぶりに言葉を発したのに驚き、父と喜び合って病院から帰った。とても小さな声だったけれど、私は母の言葉が聞き取れた。明日もまた来るね、と言ったら(仕事を)休んだん?と聞いてきた。そして食い入るように私の顔を開いた片方の目だけで見つめていた母を思い出し、母は私が来るのを待っていてくれているのかもしれない、そう思った。
そして、やはり家に連れて帰って母の寿命を短くするなんてできないと思った。母に会えなくなることがうまく想像できなかった。
翌日の面会では母の反応は鈍かった。母の手を握りながら「切手のない贈り物」を繰り返し歌った。それでも別れ際には、手をわずかに振ってバイバイをしてくれた。
周囲は、思えばこそいろいろ言ってくれるけれど、自分の目と耳で確認し、自分で判断すること、専念寺のネコ坊主さんの言葉をまた思い出した。
写真は、先月活けた椿とキンカン(実家の玄関)。そしてほぼ毎朝来ているらしい野良猫のフジ。