< script data-ad-client="ca-pub-5086079268044038" async src="https://pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js">

はやし蜜豆の犬も歩けば棒に当たる、

好きな俳優の作品を集中して観るのが好き。その記録や映画の感想、日常気になる現象をぼそぼそ綴っていきます。

「隣人X 疑惑の彼女」:まさに林遣都劇場

初日と日曜日、2回鑑賞。
2回観て腑に落ちること多々あり。上野樹里と林遣都がなぜキャスティングされたかもその一つだ。
林遣都は、志はあるけれど高邁な精神を持つわけでもなく、優しくて時に矮小にも見える青年の役。話が進むにつれどんどん全方向から追い詰められ、観ていてかわいそうになった。特に終盤の自分の部屋での衝撃の対決シーンの遣都は圧巻だった。

上野樹里は能面のように抑えた演技。動揺することが極端に少なく、最後までこの人はXなのか、Xだからこんなに落ち着き払っているのかわからない。地味だけれど知的で自分をしっかりもっている”普通の女性”が魅力的だった。

作品のテーマはシンプルだと思う。
誰もがもつ無意識の偏見をあぶりだし、日常に軽く吐いた言葉がどんなに人を傷つけることがあるかを問い直す。そして無知や知ろうとしないこと、理解しようとしないことが、人と人の間に壁を作り偏見につながることを描いていた。

 

日本が受け入れを決定した、惑星難民X。
彼らは最初に触れた人間をスキャン&トレースして人間の姿になることができ、かつ人間を傷つけない性質があるというが、人々は人知れず社会に紛れ込んだXの存在に不安を感じている。さらにマスコミがその不安を煽る。

林遣都演じる雑誌記者、笹憲太郎はスクープを上げられず解雇寸前。祖母の老人ホーム利用料の督促もあり、Xの存在を暴いてスクープを上げなければ詰んでしまう。X疑惑のある柏木良子(上野樹里)に近づくために好意があると装い、彼女がXである証拠をつかもうとする。

良子へのアプローチから始まり、いくつかのステップを経て、突然彼女の父親に会いたいという展開まで、不自然に性急な笹の様子になぜ良子は疑問を抱かないのか。笹が良子への距離を縮めていく毎こちらは奇妙に感じたのだが・・。同時に笹の、良子を欺く行動と良子への愛情のはざまで七転八倒する様にふとドン・キホーテを思い出してしまった。

笹はXに対して違和感があり、どうしても受け入れを肯定的にとらえられない。多くの人もそう思っているから、Xの正体を暴かなければならないという大儀があるが、同時にXについて無知ゆえの疑心暗鬼、怯え方が半端なく、滑稽に見えたのだ。
知らないこと、見えないものに怯え、さらに周りからのプレッシャーで追い詰められていく笹の様子はまさに林遣都劇場!終盤のどんでん返しに唖然とし、そして大ラス(ラストシーン)の良子と笹の表情に救われた。

偏見だらけの笹だったが、良子に惹かれたのは”心の目”で彼女のことを見ていたからだ。そして良子も笹のことを不審に思いつつも、彼の優しさを”心の目”で見抜いていたのだ。

1回目の鑑賞では、Xが人間をトレースして人間になるってどういうこと?元の人間はどうなるの?あの人は結局Xだった?など、どうしてもXについて疑問が湧いてしまった。2回目はストーリーを追わずに落ち着いて観られ、疑問が私なりに解決し、笹と良子、そしてサイドストーリーとしての拓真(野村周平)と蓮(ファン・ペイチャ)のカップルの成り行きにもホッとした。

 

©2023映画「隣人X 疑惑の彼女」製作委員会 ©パリュスあや子/講談社

happinet-phantom.com

[http://にほんブログ村 映画ブログへ
にほんブログ村:title]

 

[http://映画評論・レビューランキング
映画評論・レビューランキング:title]

 

「エゴイスト」(2023年):タイトル通り”エゴの塊”なのだけれど

(ネタバレしています。)

浩輔(鈴木亮平)は、愛する恋人、龍太(宮沢氷魚)が病気の母(阿川佐和子)を支えるために体を売っていると知り、自分が経済的に援助するから”売り”をやめ、それでも足らない分は頑張って働くよう諭す。

出会ってほどなくして惹かれあい、愛し合う龍太と浩輔だがが、高校を中退して病気の母を支えてきた龍太の健気さに、浩輔はできる援助をどんどん増やしていく。それは確かに無償の愛ではあるけれど、注ぎこまれれば注ぎ込まれるほど受ける側は浩輔なしではいられなくなる。情や愛も深まるけれど、それに応えようと誠実な若者は必至で働くことになる。

前半の浩輔と龍太の甘い生活シーンで映された二人のセックスシーンは、その後、龍太の”売り”シーンに変わり、その後カメラは、昼間のスクラップ工場、夜の飲食店で懸命に働く龍太の横顔、背中を繰り返し映しだす。浩輔との優しい生活も合間に入るが、観ている方はだんだん不安になる。龍太の身に何か起こるのではないか・・・。

カメラが近い。ロングで撮っているシーンはわずかで、特に浩輔に関しては、その表情、肩や背中、足や指先と鈴木亮平に寄りに寄っている。つるつるに剃った腕や足。自分の父親に会う時のゲイを隠した表情。仲間との気のおけない食事会。そして龍太との逢瀬。それぞれ微妙に違う顔を見せる複雑な浩輔の心を、鈴木亮平が全身全霊で完璧に表現していた。

 

龍太は、若さに任せて昼夜問わず働き、(きっと)過労が原因で突然死してしまう。
傷心の浩輔は、自分の関心と慈愛をそそぐ先を、龍太の母親に向ける。母親を早くに亡くしたこともあると思うが、彼は龍太亡き後、彼の代わりになりたかったのだと思う。病気の母親は戸惑いながらも、息子が愛した男からの経済的援助や買い物など身の回りの世話を受けるようになり、病で入院してからは浩輔は彼女にとって息子のような存在に・・。

帰ろうとする浩輔に、余命僅かの病床の母親は「もう少しいて」と頼む。「はい」と答えた浩輔の至福の表情(もはや鈴木亮平が観音菩薩に見えた!)にハッとした。浩輔はその時ついに愛するその人、龍太その人に成ったのだ。

無償の愛を龍太母子に注ぐことは、龍太を自分にとって理想の恋人にしたいから。龍太亡き後の母親への献身は、龍太になりたかったから。

愛すること、与えることで自分を生きる浩輔。なんというエゴイスト。タイトルが腑に落ちた瞬間だった。

しかし、浩輔の生き方をエゴイストで酷いとは1ミリも思わなかった。一人の人間が、立って生きる、一つの生き方だと思った。

本作、ハードな男性同士のセックスシーンが結構あるのだが、いやらしい感じが全くなく美しいとさえ思った。一重に宮沢氷魚の陶器のような白い肌と細長い四肢、茶色い髪のたまもの。純朴にも見え少年のように微笑む彼をおいて、この役にはまる俳優はいたのだろうかと思う。

最期に、本当は弱者で悲劇的な母親なはずなのに、阿川佐和子が演ると可哀そうに見えず、母親の大らかさと優しさが際立ったのが良かった。何よりもこの母親はゲイの息子とその恋人を心から受け入れている。
息子がカミングアウトして「ごめんなさい」と何度も謝ったことを浩輔に伝えながら、謝ることは何もない、と浩輔にも言った時、マイノリティの人の苦しみがストレートに胸にささり、涙が溢れてしまった。

egoist-movie.com

 

 

 

 

[http://にほんブログ村 映画ブログへ
にほんブログ村:title]

 

[http://映画評論・レビューランキング
映画評論・レビューランキング:title]

 

 

「第三の男」(1952年日本公開):猫に小判 - 2(鑑賞の記録)

その昔、父は若いころ観た「第三の男」はすごい映画だぞ、と言った。
そして最近「第三の男」を昔何回も観たよ。怖い映画だぞ、と言った。

確かに何回も観たのかもしれないが、”怖い映画”というのは他の映画、例えば「死刑台のエレベーター」と勘違いしているのではないか・・?

 

オープニングから流れるエビスビールのCM曲、あの、ちゃららららーんららーん、というのがモノクロの映像にのり、とてもスタイリッシュ。(もちろん、エビスビールのCMの方が後だからね)
犯罪映画なのに、この軽快で明るいテーマ曲って何なんだろう。
たぶん戦後の破壊されたウィーンの混沌とした世情を、暗く混乱したものとしてではなく、戦争が終わった解放感、抑圧されていた人々が立ち上がり前を向く様を表現するのに合っていたのだろうか。軽快かつ無責任な明るさがある。

 

物語は、友人ハリー(オーソン・ウェルズ)の誘いでアメリカからウィーンに来たホリー(ジョセフ・コットン)が、いきなりハリーの葬儀に行く羽目になるところから始まる。ハリーは自動車事故で亡くなったというが、目撃者によるとそこに居合わせたのが2人、いや3人、つまり第三の男がいる、と証言がくい違う。
イギリス人の少佐は、ハリーが違法な薬物を密売しているというが、ホリーは友人が悪事を行っていたとはにわかに信じられず、真実を知るべくハリーの周囲を調べていく・・・。

意外と早々に”第三の男”の正体はわれるわけだが・・。
ハリーの恋人だったアンナ(アリダ・ヴァリ)への同情とも愛情ともつかない感情で揺れるホリーは、友人が犯罪者であるかもしれないという疑念でも苦悩する。
戦争は終わったけれど、殺らなければ殺られる、たとえ犯罪でもやらなければ生き残れない・・刹那的な生き方をオッケーとしたハリーの冷淡な一面を見せつけられるホリーだが、アンナや周囲の関係性からハリーにも情に厚い面がきっとあった。

終盤の下水道での追跡劇は緊迫感に溢れるものだった。そして、追い詰められたハリーが、ホリーに送ったサインは・・・。

 

美しい並木道を、遠くから歩いてくるアンナをロングで撮ったラストは印象的。テーマ曲と共に目と耳にいつまでも残るものだった。

本作も”猫に小判”。”私に往年の名作”と思ったけれど、こうして思い返して感想を書いてみると、やはり傑作なのだろうと改めて思う。

第三の男(字幕版)

第三の男(字幕版)

  • ジョゼフ・コットン
Amazon

 

[http://にほんブログ村 映画ブログへ
にほんブログ村:title]

 

[http://映画評論・レビューランキング
映画評論・レビューランキング:title]

 

 

 

「銀河鉄道の父」(2022年):菅田将暉さんに謝りたい!

役所広司の、何とも言えない間の取り方と、きょとんとした表情で笑いを誘う芝居が好きだ。(ご本人が笑いを意図しているかどうかは知らない)
以前「キツツキと雨」という、若かりし頃の小栗旬と共演した作品でそれを発見して以来、役所広司のその演技がめちゃくちゃ気に入って、そういうシーンが観られそうな映画やドラマはなるべく観るようにしている。

本作も中学校を卒業して帰宅した宮沢賢治(菅田将暉)の成績表を見て「88人中60番目」とつぶやき息子の顔を見た顔と、「はい」と悪びれもせず実直に返事する賢治のシーンがすごく好きだ。

 

以前、菅田将暉のことを、薄っぺらい若造を演らせたらこの人の右に出る者はいない、と言って褒めたことがあるけれど、それは「ディストラクション・ベイビーズ」「そこのみにて光輝く」「セトウツミ」「溺れるナイフ」などの菅田が役にすごくハマっていて良かったからだ。

その後、彼が日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を取った「あゝ、荒野」やもっと前に新人賞を取った「共喰い」ほかドラマなども観たけれど、やっぱり私の好きな菅田将暉は、auのCMでおなじみのオニちゃんのキャラクターに代表される、単純でやんちゃで勢いだけはある若造なのだ。

その菅田将暉が、本作ではあの「雨ニモマケズ」の詩人であり童話作家の宮沢賢治を演じるという。貧しき人、弱き人の側にいた、心優しき聖人君子みたいな印象のあった宮沢賢治だけれど、本作の中ではどうしようもないバカ息子、資産家だから許される”自分探し”に年月と金を費やしており、まるで死ぬまで親のスネをかじっていたような描かれよう。
その何者にも成れない、だけど人のために何かを成したい心優しき青年を、菅田が丸坊主の頭と骨ばった鋭利な身体、純粋で恐れ知らずの目で体現しており、本当に素晴らしかった。相当身心をすり減らして演じているようにも見えた。

そして、跡取り息子、賢治のながーいモラトリアムを、時に叱り飛ばし、時に励まし、"物書き”になるよう背中を押した親ばかの父親(役所広司)の、深い深い愛情には心から共感した。自分も親として、ここまで子どものことを信じで応援できるだろうか、”銀河鉄道の父”を尊敬しつつ何度も自問してみた。

 

菅田将暉は薄っぺらい若者が似合うと、やたらこのブログで書いてきたことをお詫びします。繊細で純粋で、深く物事を思考する若者の役にもしっとりハマる。(「ミステリと言う勿れ」の整くんしかり。)
というか、どういう役を演じても相当上手い俳優さんだと思っています。

銀河鉄道の父 [Blu-ray]

銀河鉄道の父 [Blu-ray]

  • 役所広司,菅田将暉,森七菜,豊田裕大
Amazon

 

[http://にほんブログ村 映画ブログへ
にほんブログ村:title]

 

[http://映画評論・レビューランキング
映画評論・レビューランキング:title]

 

 

おまけ

私がこれまで菅田将暉=チャラい役ぴったりと書いてきたブログ歴

www.mitsumame.work

www.mitsumame.work

www.mitsumame.work

www.mitsumame.work

 

 

「市民ケーン」(1941年アメリカ公開):猫に小判・・・(鑑賞の記録として)

2021年のアカデミー賞で話題になった「Mank」。その時、”映画史に名を刻む大傑作”(これはUNEXTの紹介コピー)「市民ケーン」の共同脚本家の伝記映画であると紹介さていた。主演は私の好きなゲイリー・オールドマンだけど、「市民ケーン」を全く知らなかったし、食指が動かずスルーしていた。

「市民ケーン」

先日観た、西島秀俊の「CUT」の中で100本の名作映画の一つとしてタイトルが出たのを見逃さなかった。2年前の記憶と最近目にした映画タイトルが重なったということで鑑賞。

 

オーソン・ウェルズって俳優だったんだ・・?映画の歴史も何も知らない私は、アメリカ映画史に影響を与えた監督、個性的演技が光る俳優・・・どのオーソン・ウェルズのことも知らないが、なぜか名前だけは聞いたことがあった。

そんな具合だから、何が傑作かもわからず、”猫に小判”とは、私に「市民ケーン」というわけだ。

 

たまたま両親が経験した偶然と幸運を引き継ぎ、資産家としてメディア(当時は新聞)を買い取り、政界に挑戦し・・とやりたい放題の男、ケーンが亡くなった。最後の言葉「Rose bud(薔薇のつぼみ)」という言葉を残して。
その言葉の謎を解くために、彼の生い立ちを関係者から聞いていく新聞記者。そこには、世界中から彫像を買いあさり、歌手になりたかった妻のためにオペラハウスを建設し歌わせ(妻には歌手になる実力はなかった)、巨大な自分の城を建てたけれど、最後まで誰かを愛することも、そして愛されることもなかった一人の孤独な男の姿が浮かび上がるばかりだった。

オーソン・ウェルズは、共同脚本、監督、製作、そして主人公ケーンを演じている。若干25歳の時だそうだ。スゲー。

「第三の男」もオーソン・ウェルズの演技が光る傑作ミステリーだそうだが、子どもの頃、父がこの映画のことを話してくれた記憶がある。父の青春時代は、それこそ映画は娯楽の王様だったろうから、「第三の男」を観てひどく感銘を受けたような語り口だった。ついでに「第三の男」も観るか・・・。

 

作品の感想にもならず、ただの鑑賞記録になってしまった。ここまで読んでくださった方には申し訳ありません。mm

 

市民ケーン(字幕版)

市民ケーン(字幕版)

  • オ-ソン・ウエルス
Amazon

 

[http://にほんブログ村 映画ブログへ
にほんブログ村:title]

 

[http://映画評論・レビューランキング
映画評論・レビューランキング:title]

 

「CUT」(2011年):俳優、西島秀俊の”芯”を観た気がした

なんか、ものすごいものを観ちゃった・・・。

公開当時、私は映画業界の端っこで仕事をしていた。西島秀俊が、ただひたすら殴られる映画「CUT」のことを業界紙で読んだ記憶がある。覚えているということは、私の中で気に留った映画であったのだろう。西島秀俊という俳優が、今の日本の映画やドラマの世界でこんなに大きな存在になるとは知らなかったけれど。

 

往年の名作映画にほれ込み、自らも映画監督を標榜している男(西島秀俊)は、借金のトラブルで殺された兄の借金返済のために殴られ屋を始める。兄の借金は、ほかでもない男の映画製作のためできたものだったのだ。

ひたすら殴られ続ける男。ただ、殴られるだけではなく、往年の映画のタイトルをぶつぶつ唱えながら、相手を挑発し自らを鼓舞し、そしてまた殴られては立ち上がる。立ち上がる時、荒い呼吸に交じる唸り声のような息がすさまじい。もちろん腫れあがっていく顔もすごい。撮影当時40歳手前だと思われる西島秀俊が、今よりももっと細マッチョで精悍な顔なのにどんどん見る影もなくなる。最後はすさまじい。

男たちの怒号と肉がぶつかる鈍い音、唸り声、やじ、そんなシーンがひたすら続くのに、なぜか殴れら屋家業が始まってから目が離せなくなった。

この男は、なぜそこまで耐えられるのか。

この物語は、男が殴られて死ぬことで終わるのか。

男の結末を見届けずにはいられなかった。

 

ー 映画のために死ね ー

(オフィシャルサイトのトップページより)

 

男は、本作を撮ったアミール・ナデリ監督自身らしい。そして西島秀俊も、ほぼそれに近い俳優なのだろう。

 

最期に紅一点、ヤクザのオフィスで働く女に常盤貴子。ショートカットでボーイッシュな服装は華やかなイメージの彼女とは真逆。ほとんど台詞がない中、強い眼差しと意志のはっきりした表情で女の心を表現していたのが印象的だった。

往年の映画好きの方ならmust see。たぶんチェック済みのことと思う。

CUT

CUT

  • 西島秀俊
Amazon

 

[http://にほんブログ村 映画ブログへ
にほんブログ村:title]

 

[http://映画評論・レビューランキング
映画評論・レビューランキング:title]

 

 

 

 

 

 

 

「冒険者たち」(1967年):ワイルドなアラン・ドロンが超カッコいい!

レーシングカーのエンジンの開発に取り組むローラン(リノ・ヴァンチュラ)と、腕のいいパイロットのマヌー(アラン・ドロン)、金属を使ったアートで成功を夢見るレティシア(ジョアンナ・シムカス)の男2人と女1人。少し年上のローランとマヌーは親友同士、そこへ金属の廃材を求めてローランの元にきたレティシアが加わり、お互いの夢を追及しながら3人は男女を超えて友情を育む。

そして、それぞれの挫折をきっかけにコンゴの海に沈んだ財宝探しにでかける3人だったが….。

 

耳につく口笛(?)のテーマ曲が、青春を謳歌する者たちの、呑気さ、無鉄砲、そして儚さを象徴しているような気がした。
成功を夢見る者の焦燥感みたいなものはあまり深刻に描かれず、男2人と女1人の恋愛のもめごとも一切ない。マヌーがレティシアに対して描く恋心は、あっさりかわされ、レティシアが抱くローランへの愛情の行方もはっきりとはわからない。
コンゴの海上、船で過ごす3人は、まるで無限にある時間を贅沢につぶすように無邪気だ。もちろん、その宝探しの期待に満ちた平穏が続くわけはなく、一人の侵入者によって宝探しはより現実味を帯び、そして事件はおこる。

 

私のアラン・ドロンのイメージはきちんと撫でつけたヘアスタイル、シブい大人の男、日本のおば様たちに人気というものだったけれど、(というか「太陽がいっぱい」を大昔見た記憶と、最近勧められて観た「パリの灯は遠く」の印象しかない)本作で彼は20代。垂れた前髪が海風になびき、ワイルドな上裸姿がまぶしい。というか、めちゃくちゃカッコいい。昔の二枚目俳優って、ヘアスタイルやファッションや加工(!)そんなものは一切関係のない、正真正銘のハンサムであることを改めて思い知る。

 

財宝が手に入ったら、海に浮かぶ大きな家を買うと言ったレティシア。
それにそっくりなものが、レティシアの故郷の海に実在した時は、ちょっとファンタジックだった。あの要塞みたいな島は、本当に存在するのだろうか?(と書いて、ググると出てきました。「フォート・ボヤール」、1,800年代に作られた本当の要塞ですと!)

 

海。海に浮かぶ白い要塞島。一攫千金。冒険。そして固い友情。

時代も違えば国も違うけれど、青春の一片を鮮やかに切り取った、確かにmust seeの青春映画だった。

冒険者たち (字幕版)

冒険者たち (字幕版)

  • アラン・ドロン
Amazon

 

[http://にほんブログ村 映画ブログへ
にほんブログ村:title]

 

[http://映画評論・レビューランキング
映画評論・レビューランキング:title]