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はやし蜜豆の犬も歩けば棒に当たる、

好きな俳優の作品を集中して観るのが好き。その記録や映画の感想、日常気になる現象をぼそぼそ綴っていきます。

「パレード」(2010年)-2:冷静になって、もう一度観ました

「おっさんずラブ」のシリーズ1で林遣都沼に落ちた私は、その後彼の出演したドラマや映画をあさりに漁って見まくった。

本作もまた、沼に落ちたてのころ観たせいで林遣都に寄りすぎた感想しかなかったのだけれど、改めて録画にあったのを観てみた。

 

シェアハウスしている若者4人プラス一人の物語。まだFacebook もXも広がっていない2010年に公開された作品にしては、今の若い人たちがSNSの中で作る友達関係を象徴しているように感じた。同じ関心ごとを共有し、その事については徹底的に一緒に楽しむけれど、その人のそれ以外のことは遠慮して触れないようしている。たとえ薄々知っていても。もちろん、若い人が皆とは言わないけれど、身近にいるZ世代の娘と話していると、本当にそう感じる。

私も長く、まあまあ深く付き合っているつもりの高校時代の友達のことをすべてを知っているわけでもないし、そういう意味では本作で、直輝(藤原竜也)が言った「誰も本当のあいつのことは知らない。それぞれ自分が知っているあいつが全てだ」というのも納得がいく。

シェアハウスの4人が、直輝の所業を知っていたかどうかは置いておいて、衝撃のラストからその後彼らがどうなるのか考えてみた。

「パレード」というタイトルが表すように、彼らの心地いい表面だけの付き合いは終わるのだと思う。なぜなら楽しい、見せ物であるパレードには必ず終点があり終わるものだから。

犯罪者の直輝は警察に出頭するだろうし、未来(香里奈)は、シェアハウスを出る、そして琴美(貫地谷しほり)は田舎に帰り、良介(小出恵介)は、田舎に帰ると言いつつ流されて東京で就職するのではないか。

サトル(林遣都)もまた公園での立ちんぼの生活に。

それにしても、キャスティング最高だな。林遣都はもちろんだが、(真面目で静かな!)藤原竜也、(軽くてチャラい)小出恵介、(恋愛依存で何も考えてなさそうな)貫地谷しほり、そして(ヤバい)香里奈。香里奈はわたしが観たなかで一番役にハマっていて良かったなあ。

本作の概要や林遣都についての感想はこちらで。

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「白鍵と黒鍵の間に」(2023年):昭和の終わり、ノスタルジックな青春映画・・?

なぜ本作をミステリーと勘違いしていたのだろう。(以下、ネタバレしています)

てっきり昭和最後のバブルのにおいがプンプンする銀座のキャバレーやクラブの音楽シーンを舞台に、ヤクザが絡んだクライム・ミステリーだと思っていた。
鑑賞のきっかけは池松壮亮。彼が夢を追いかけるピアニスト博と夢を捨てたピアニスト南を演じ分けるというから観始めたのだ。

確かに序盤で刑期を終えた”あいつ”が博が弾くピアノに近づき「ゴッドファーザー」のテーマ曲を弾いてくれと依頼したが、その曲をリクエストできるのは”会長”と呼ばれる銀座のボスと、演奏できるのは南というピアニストだけという伏線。てっきりその理由や”あいつ”と”会長”の因縁などがこれから解き明かされるだろう、そして博と南の邂逅があるのかなどワクワクしたのだが・・・。

結局私の期待は裏切られ、というかそんなものはこの映画の本筋には何の関係もないことがだんだんと分かってきた。
繰り返されるのはクラブのバンドマンたちの理想と現実の乖離。夢や希望よりも、目の前の客が喜ぶものを演奏すること。そんなやりとりが南の周りで、そして博の周りでも語られる。徐々に博と南が同一人物に見えてきて「あれ?池松、演じ分けてないの?」と一瞬思ったけれど、二人が同一に見えたのは当たり前、そもそも南博という人物の過去と3年後だったわけだ。

むう、そこに行きついて思ったのは、なんてファンタジックで内省的な映画だったんだろう・・・。確かに原作はジャズ・ミュージシャン、南博の回想録なのだ。南博!ここ抑えていたら、最初から2役とは思わなかった??

前半の池松の南と博の演じ分けは面白かったし、博にしても南にしても熱い情熱を持ったミュージシャンというよりは、どこか冷めた力が抜けた感じがあり、そこが池松壮亮らしかったし、それがより強い南の方がカッコよかった。

しかし、本作でおいしいところをもっていったのは、”あいつ”を演じた森田剛ではなかったか。
森田剛って、あんな良い演技するんだ。そして音楽屋の矜持はあるがどこかイカレタ感のあるバンマスを演じた高橋和也。二人の元ジャニーズの存在が光っていたなあ、というのが正直な感想だった。

 

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「PERFECT DAYS」(2023年)- 2:五感をとぎすますということ

あれから役所広司演じる平山の日常を時々思い出す。そして、彼が五感で入ってくるものをとても大切にしているということに気づく。

朝、近所のおばあさんが道路を掃く音で目を覚ます

家を出るときにまず仰ぎ見る空

仕事に行くときに車で流すカセットテープの曲

お昼休みに見上げた木漏れ日の光の変化

彼の動作は毎日同じだが、同じ空、同じ光、同じ音はなく、それを感じる自分もまた日々新しいのではないか。

 

話変わるが、昨年ぐらいからAIやChatGPTが話題になり、仕事や生活にその技術は少しずつ浸透してきている。人口減少に伴う労働力不足をAIが埋める・・いや、それだけにとどまらずAIは人の仕事を奪うのでは?といった議論も出ている中、NHKの「フロンティア」という番組で「AI 究極の知能への挑戦」というテーマの回を見た。
AIの学習が進んでいくと、知識の量、そしてそれを使った判断力、知恵みたいなものは人間を超える時がくる。しかし、科学者がAIの知識と人間の知識の違いは、肉体を伴った経験かどうかだと言っていた。AIがひたすら学び続けた結果導き出されるものと、生の肉体を持つ人間が導き出すものには違いがあり、そこに価値を見出す・・みたいな内容だったと思う。私がそのように受け取ったのかもしれないが、なんだか救われた気がした。

AIになくて人間にあるもの、肉体に備わる五感。見る、聴く、触れる、味わう、匂う・・ほかにも痛みやドキドキする鼓動etc..

「PERFECT DAYS」に戻るが、平山は静かで単調な日常の中で、彼の肉体、五感で感じることに熱心だった。そのことは彼の平板な日常をとても豊かにしていると思う。そして、それは多くの人が享受できるものだ。
今思い出したが、やたら銭湯のシーンがあり役所広司の裸、初老の男の裸をそんなに映さなくてもいいけど…と思ったのだが、感じることの続きに肉体があるってことなのかしらん。←たぶん考えすぎ

私たちは、つるっとした(「不適切にもほどがある!」で阿部サダヲが連呼していた)四角い薄いマシンと日々にらめっこし、使っている器官のほとんどが目と耳のみになりがちだけれど、液晶から目を外した時、感じるもの、匂うもの、触れるべきものにもっと注意深くあるべきなのだ。目から得た情報の毒、ほかにもふとした心のさざ波、そんなものを一瞬忘れさせてくれる光や風にきっと出会えるはず。

 

全然余談だけれど、「PERFECT DAYS」を観てからなぜかドラマ「火花」の「I See Reflections on Your Eyes」が頭を時々まわる。(劇中に流れる曲に雰囲気が似ている曲があるんだな)この曲だが主人公の焦燥感を歌っていることはさておいて、聴いているとなんだか心が落ち着く気がする。

余談ついでに「火花」の感想は、こちら

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「PERFECT DAYS」(2023年):繰り返されるいくつものシーンが、いつまでも心に残る(トイレ清掃のシーンではなく)

J-WAVEに本作のプロデューサーの柳井康治氏がゲストで登場した時、この映画を作るきっかけを知った。
遡ること、2020東京オリンピック前、おもてなしの日本を具体化するために渋谷にアートな公衆トイレを作るプロジェクトが立ち上がる。そのトイレの周知も必要だが、それをきれいに使ってほしいと言う願いもあり、ショートフィルムでも作ろう、みたいな話から始まったらしい。思いつきを相談した相手(=高崎卓馬氏)を間違わなかったようだ。そこから柳井氏の希望、まるで夢みたいな発想が、高崎氏によって昇華され、役所広司に出てもらって、ヴィム・ヴェンダースに撮ってもらって、こんな曲を使いたいなーが、あれよあれよ現実化していったらしい。まるで夢のような話を柳井氏はしていた。

もちろん、そこに高邁な理想とゆるぎない信念があったから、最高の形で本作が出来上がったのだが、まあ、観るのはWOWOWでいいかと最初思っていた。
ところが、その時に映画で使われている「Perfect Day」が流れ、めちゃくちゃいい曲でこれを劇場の音響で聴きたいと強く思ってしまった。

前半はほとんど話の展開がなく、役所広司演じる公衆トイレの清掃員、平山の毎日が淡々と描かれていく・・。ほぼ台詞もない。という退屈そうな話だと知って相当覚悟して出かけたわけだが・・。

実際その通りだった。平山という男の過去や現在や、周囲の登場人物のことも含めて、およそ説明といものがほぼない。(実はそういう映画が好き)
質素で簡素な平山のボロアパートの部屋の一片に並べられた文庫本の棚、毎朝口ひげを整える様子、そして後半、平山の妹が運転手付きの車に乗って登場したこと、平山への手土産、彼が好きだったらしいものがどこかの有名なお菓子ではないかと想像できたこと・・・。

数知れた平山の通い先、夕食を取る居酒屋、時々顔を出すスナックのママとの関係、古本屋。彼の日常をまるっと見せられ、平山という人物の過去の出来ごとや今、そして未来までも、鑑賞後いくらでも想像することができた。

そして、現在の平山が淡々とした日常の中に見つける小さなしあわせ、ほっとしたり、思わずにっこりしたりする一瞬を思い出し、”PERFECT DAYS”というタイトルを噛み締める。

PERFECT DAYSは、平山だけのものではない。この私にだってある。あえて書くが、平山が修行僧のように我慢強いとか、絶対に怒らない菩薩のようだとは全く思わない。彼の中にある弱さ、今の境遇に甘んじる(この言葉は適切ではないと思うが)優柔さだって垣間見られるのだ。だから、平山が特別な人というわけではないと思う。ただ、平山は人生を慈しむ術を知っているというだけだ。

誰にでもあるはずの平山的感覚を大切にしたい。今日も今日とて心がざわざわした時に、平山だったらどうするだろう、何を見て切り替える?と反芻していた自分がいた。

 

本作がヴィム・ヴェンダースの傑作と言えるかどうか私にはわからないが、役所広司のカンヌ最優秀男優賞は文句の言いようがない。役所広司の顔がスクリーンいっぱいに映るという作品を何本も観たことがあるが、本作の大ラスのそれは秀逸だ。

①泣く男の顔が②長尺で③大画面に映し出されて耐えられるのは、本作の役所広司か、今よりもっともっと若かったティモシー・シャラメ(「君の名前で僕を呼んで」)くらいではないかと思ったほどだ。

役所広司スゲー。それしか言えん。

劇中の曲ももちろん素晴らしかったです。

 

本作がカンヌ映画祭で話題になったことで、製作のきっかけとなった東京トイレプロジェクトのことを広めるのに少なからず役立ったと思う。「トイレをきれいに使いましょう」という隠れたメッセージを超えて「人生を慈しもう」という表のメッセージを強烈に放っている。いやあ、映画って素晴らしい!

 

プロデューサー柳井康治氏のメッセージはこちら(これ大事)

www.perfectdays-movie.jp

 

「君の名前で僕を呼んで」の感想はこちら(オマケです)

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「ドリーム」(2017年)サクセスストーリーにスカッとするが、それだけではない良作

冒頭、主人公3人の黒人女性が勤務先のNASAに向かう途中、車が故障して道路わきに止まっているところへ警察官がやってくる。
警察官が来ると知り、厄介なことを避けようと3人は丁寧かつ従順に警察官の質問に答える・・・。

この冒頭シーンがとても象徴的だ。つまり、アメリカの白人警官の黒人を見る目が、半分は何らかの犯罪の容疑者として見ているということ。それがわかっていて彼女たちは、疑いが向けられないように対応したのだ。そして、その白人警官の態度は今現在でもアメリカの警察官のDNAに刷り込まれているらしい。(2020年のジョージ・フロイドの悲劇は、日本人の記憶のかなたかもしれないけれど)

本作はNASAの有人飛行成功の影に、3人の黒人女性の活躍があった事実を活写しており、差別をはねのけ彼女たちが活躍する様は爽快だった。
1960年代、女性であることですでにマイノリティ、その上黒人であることで通う学校、使うトイレ、服装に至るまで女性は、黒人は、、と規定されていたことに驚く。見ている時、彼女たちの対極にいる、男性・白人を思わず罵倒したくなったくらいだ。

映画の主人公たちは、黒人女性だけれど”才能”というギフトを授かっていた。不屈の精神で自らの道を開いていけた彼女たちには賞賛しかないけれど、才能を持っていないマイノリティたちはどうしたらいいのだろう、とふと思った。

そこで思い出したが、以前いた会社で参加した6月19日のJuneteenth(ジューンティーンス)のイベントだ。黒人解放を祝う日として最近(2021年)アメリカで制定された祝日だが、アメリカで行われた会社のイベントにオンラインで参加した際、スピーカーのセネターの女性のスピーチに心動かされた。内容をすべて理解したわけではないのだが、強い意志と脈々と彼女が家族から引き継いできた”差別される側”の怒り(怨念とは違うと思う)が、ネットの向こうから伝わってきた。

心の底からの訴え、その訴えに歴史的背景があり、個人のファミリーヒストリー(家族の記憶)が重なり熱を帯びる時、黒人差別とはあまり縁のない日本人の私にも伝わるものがあるのだと思う。(そう書いて、今現在目にしているイスラエルとパレスチナの抗争に終わりが見えないことを改めて痛感してしまう・・)

 

話が映画から逸れてしまったが、黒人女性のサクセスストーリーを描きながらも、その苛烈な黒人差別(しかも当時は差別することが当たり前で、差別する側にあまり悪気はないっていうのも考えさせられるところ。自分の胸に手を当てて考える必要ありです)を改めて知るには観ておいて損はない作品。

ドリーム (字幕版)

 

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「バグダッド・カフェ ニュー・ディレクターズ・カット版」(オリジナル版日本公開1989年):大掃除は好転の始まり

劇中歌「Calling you」はあまりに有名。
当時J-WAVEの「TOKIO 100」を聴いていた私は、毎週毎週ラジオから流れる「Calling you」に魅了され、本作のサントラ盤を購入し聴きこんでいた。音楽もストーリーもすっかり頭に入り、情景まで明瞭に思い描くことができ、まるで観たつもりになっていた。(今回初鑑賞)

 

まず、見た目でキャスティングが素晴らしい。

アメリカの砂漠地帯にあるモーテル兼ダイナー兼ガスステーションを経営する女主人、ブレンダにキャロル・クリスティン・ヒラリア・パウンダー。乾いた大地に仁王立ちした彼女の棒のように細い足は、働きの悪い夫をはじめとする思い通りにならない人生へのいら立ちを表すようだ。

ブレンダの経営するバグダッド・カフェに、旅行中に亭主と喧嘩別れして一人歩いてたどり着いたドイツ人女性、ジャスミンにマリアンネ・ゼーゲブレヒト。彼女の丸っとしたフォルムそのものが、観る者に癒しを与えてしまう不思議さ。

 

何もかもうまくいかなくて、周囲に当たるしかなかったブレンダだけれど、究極のD&I(Diversity &Inclusion)。何びとも受け入れる度量は限りなく大きい。(というか、どうにでもなれって感じか)
確かに男物の服の詰まったトランクを引きずってきたジャスミンを最初こそ怪しみ、子どもを手なずけられた時は怒りと共に追い出そうとしたが、何を着ても自由だ、ここはアメリカ、It's Free Country!の言葉に諫められ、子供を可愛がるのは、ジャスミンに子どもがいないからと知って、彼女への見方を改める。
そのほかにもモーテルを使わずテント暮らしをする青年、カフェの近くのトレーラーハウスで過ごす初老の男、タトゥーの彫師の女など、実に様々な人が彼女の周りにはいる。そのうち、その一人となったのがドイツ人女性のジャスミンというわけだ。

 

荒れ果てたダイナーを暇に任せて大掃除し、同様に暇に任せて練習したマジックを客に披露したことで、店が繁盛することになり、ジャスミンはブレンダのダイナーの救世主となる。そんなにうまくコトが運ぶわけはないのが、ファンタジーと思った所以だけれど、人生詰まっていた者同士の奇跡の出会いが生み出すファンタジーは大いに楽しめた。

自由の国アメリカの大らかさ、様々な種類の人がつかず離れずいい距離感で暮らす様。アメリカの”良いところ”だけをちりばめたような本作は、ベルリンの壁崩壊前の西ドイツ製作。乾いた大地に響く「Calling you」、ジェヴェッタ・スティールの声が、二人の女性の心情、友情を、静かに観る者の腑に落としてくれる。ーーー映画館で観たかった。

 

余談だが、仕事納めを数日後に控え、1年に1回掃除の神様が降臨し大掃除に励む家人をしり目に本作を鑑賞したわけだけれど、主人公の女性二人の物語は、ジャスミンがブレンダのダイナーを大掃除したことから始まる。そういう意味で、掃除をしてこざっぱりすることは何か好転のきっかけになるのかもしれない。この時期、お薦めの映画です。

 

 

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「ヨコハマメリー」(ドキュメンタリー、2006年公開):想像以上にいい作品でした

90年代の終わり頃まで、横浜に住んでいたり働いていた少なからずの人が「メリーさん」と呼ばれた白塗りのホームレスの老娼について聞いたことがあるのではないか。
90年代中頃、本牧で働いていた私も様々な噂を聞いたし、一度関内にあるビルのお手洗いで彼女を間近に見たこともある。

あの頃から随分経ちメリーさんのことを思い出すこともなかったが、読者になっているhisa24さんのブログで本作のことを知った。
鑑賞動機はただ一つ。化粧を落とした素顔のメリーさんが映っているらしいという軽いものだった。

 

本作はメリーさん本人にインタビューをしているわけではなく、メリーさん知る人々がそれぞれの記憶にあるメリーさんを語り、謎多き人物像に迫っている。
愛情をもって語る人、理想化した女性として語る人、または憐憫を伴って語る人、または嫉妬心が見え隠れしながら語る人。その中で複数の人が「あの人はプライドが高い」と言っていた。彼女は娼婦としての稼ぎがなくなっても施しを受けるのではなく、何らかの労働の対価として金銭を受け取っていたようだ。

ビルの廊下やベンチを使わせてもらっているビルオーナーにお歳暮を送っていた。
行きつけのクリーニング店、美容院の存在。
友人となったシャンソン歌手のコンサート、当時の県民ホールへの出入り。
どれもホームレスとは思えない、文化的な行動に驚いた。

しかし、最も衝撃を受けたのはやはりラストに映し出されたメリーさんの素顔だ。
私が遭遇した彼女は、写真や映像に残っている白塗りの小さなおばあさんその人だった。アイラインで真っ黒な目の奥が潤んで光って見え、見たとたん言葉もでず平静を装うのに必死だった。しかしスクリーンに映ったその素顔は、目も鼻も小筆ですっと書いたような大正美人のよう。友人の歌う「マイ・ウェイ」を聴く表情は穏やかで、薄化粧をした顔は品があり健康そうに見えた。何十年も路上生活を送った女性とはとうてい思えない”豊な”印象に、なんだか食らわされた気がした。

思うに、ホームレスの老娼に関わった人々が同情や憐憫よりも強く感じていたのは、彼女の孤高への畏敬の念ではなかったか。
娼婦というフィルターはかかってしまうが、美しいモノを愛し、本物を見抜き、そして過去の大恋愛を胸に秘め、自分のスタイルを貫いて一人横浜の街に立ち続けた女性への畏敬。

メリーさんを語る人々を5年に渡り取材し、彼らが生きた時代と横浜の変遷をノスタルジックに描いた本作に、戦後の混沌と”やんちゃ”だった横浜のエネルギーや人情に対する憧憬にも似た愛情を感じた。監督の中村高寛が当時30歳というのも驚きだった。

最後に、メリーさんの友人でシャンソン歌手の永登元次郎さんについて。
戦後、ゲイボーイとして生きたこの人の生き方はメリーさんと重って見えた。映画の公開を待たずがんで逝去されているが、この人にも何とも言えない哀愁と魅力を感じた。

ヨコハマメリー

ヨコハマメリー

  • 永登元次郎
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