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はやし蜜豆の犬も歩けば棒に当たる、

好きな俳優の作品を集中して観るのが好き。その記録や映画の感想、日常気になる現象をぼそぼそ綴っていきます。

「戦場のメリークリスマス」(1983年):”戦メリ”の音楽だけでない、坂本龍一とデヴィッド・ボウイの夢の共演

公開の年、映画館で観た。
当時、YMOで人気の坂本龍一が出演しているという理由だけで観て、その時デヴィッド・ボウイという英国人ロッカーを発見した。(その後友人の影響もあり、坂本龍一とデヴィッド・ボウイを聴くことになる。)

その時は、特に映画に感銘を受けた記憶はないのだが、ラストシーンのビートたけしのアップの顔は、あの美しいテーマ曲とともにずっと頭に焼きついていた。

今回、坂本龍一が亡くなった訃報に触れたことがきっかけで、2度目に鑑賞したわけだが、ラストシーンを観て思わずつぶやいた。

「やっぱり名作だわ」

 

戦争は関わっている者にはなにがしの大儀がある。その大義を集団で共有するも、状況が悪化(戦闘のみならず、生きるために必要なすべてが不足)することにより、精神的に追い詰められ、狂気にまっしぐらに進む様が恐ろしい。
収容所の所長であるヨノイ大尉(坂本龍一)は、思い通りにならない俘虜長に怒りを募らせる日々の中、新しく俘虜となった英軍兵士のジャック・セリアズ(デヴィッド・ボウイ)の毅然とした態度に惹かれていく。そのことで彼はより追い詰められ、自分と他人(俘虜たち)に”行”を課”すことで、精神を高めようとする。

戦争中の日本人の行き過ぎた精神論と、西洋の論理的思考の違いを浮き彫りにし、ぶつかりながらも兵士としての矜持を何とか捨てずに生きようとする双方の男たち。間違っても男性同士の愛を描いたゲイ映画ではない(と思う)。

ところで、あの集団的狂気は、当時の日本人が持つ特有のものだったのか?と自問したが、セリアズの、障がいのある弟の感想シーンを挟むことで、集団的狂気(この場合いじめ)が当時のイギリスのパブリックスクールでもあったことを教えてくれた。

今思えば、皆が狂気に向かっていく中で、ハラ(ビートたけし)だけは一人”まとも”だったのではなかろうか。俘虜との通訳者だった英国兵士のローレンス(トム・コンティ)との不思議な友情は、ささやかな救いのように感じた。

戦争が終わって、立場が逆になったローレンスとハラの再会。
ハラの目は、ジャワ島にいた時とまるで変わらない、無垢なままだった。セリアズが最初にハラを見た時「ヘンな顔だが、目は美しい」と言ったことが、ラストシーンで胸に響く。これは、ビートたけしの演技云々ではなく、たけしをハラに抜擢した大島渚という監督の才能なんだろうと思う。たけしの平たい顔にパカっと開いた黒い瞳が本当に美しい。

また、ヨノイが当時のYMOの坂本龍一と同じように、バッチリメークで登場していて奇妙だけれど最終的には違和感がないというのもすごい。演技初挑戦で、まるで棒読みの坂本龍一を起用した大島渚監督。当時の軍人の立ち居振る舞いを完璧にこなせば、あの棒読みの台詞が、不器用な軍人が発する言葉として逆にリアリティがあった。

 

収容所でのヨノイたちの理不尽な要求に対し、信念を通したセリアズは、結果的に生き埋めの刑にあった。砂浜で首だけが出たセリアズ・ボウイを見て、いったい何時間くら埋められていたのだろうか、と空の色が変わる度に余計な心配をしてしまった。同じように収容所にいた負傷兵役の、超絶やせこけた白人俳優(エキストラ?)を見て、よくあそこまで大量のガリガリさんを集めたな、と感心した。CGなど全くない、当時のぜいたくな映画製作の片鱗を感じた。

 

最後に、坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」をピアノバージョンで聴くことが多いが、本作で流れるピアノ単独演奏でないバージョンが元だ。
全編にわたり映画音楽を坂本龍一が担当しているが、改めて彼が天才であることを思い知る。
観ていない人、聴いていない人には、highly recommend します。

追悼再上映があるそうです。

mainichi.jp

 

戦場のメリークリスマス

戦場のメリークリスマス

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